朝食前の飢饉

「朝食は鐘が二つ鳴ってからです」

鉱山町の宿〈赤炉亭〉で、ドワーフの主人バルガンは夜明け前からパンをこねる。塩を量り、卵を数え、寝坊した客の分だけ焼き時間をずらす。かつて杖を振るったという噂はあるが、本人は「麺棒なら毎日だ」と笑うだけだった。宿のパンは、坑道崩落の日にも祭りの日にも同じ大きさだった。腹を減らした者を一人も出さないことが、バルガンの妙なこだわりだった。

身分を隠して旅する王女フェリネは、厨房の隅でその手際を見ていた。城では一口も食べられなかった朝食が、ここでは楽しみだった。

一つ目の鐘が鳴る直前、粉袋が内側から膨らんだ。

袋を破って現れたのは、穀倉地帯を枯らす魔族、飢饉公バシュム。黒い指を伸ばすたび、小麦は灰になり、干し肉に蛆の幻が走る。町中の食料を腐らせれば、王国は冬を越せない。王女は、この鉱山町が北部へ送る保存食の半分を担っていると知っていた。ここが落ちれば、最初に飢えるのは兵ではなく子供たちだ。

フェリネが護身剣へ手をかけるより先に、バルガンは発酵途中の生地を持ち上げた。

「まだ膨らむ時間じゃない」

麺棒を一度、台へ転がす。

飢饉公の巨体が、見えない粉にまぶされたように白くなった。呪いも瘴気も悲鳴も、生地の気泡へ押し込まれていく。最後に残った黒い泡を、バルガンは親指でぷつりと潰した。その瞬間、遠くの倉庫で腐りかけていた穀物まで金色へ戻り、厨房の鼠が驚いて顔を出した。バシュムは消え、灰になった小麦まで元の香りを取り戻した。

フェリネだけが、麺棒の軌跡に王都防壁より巨大な魔法陣を見た。伝説では、大魔法使い〈炉心王〉が同じ陣で火山を眠らせたという。

「まさか、炉心王は……」

「焦げますぞ」

バルガンは話を切り、何事もなかったように生地を炉へ入れた。床の爪痕には小麦粉を振って掃き、破れた袋は縫い合わせる。二つ目の鐘が鳴るころ、厨房には焼きたての香りだけが残った。

王女の皿には、誰より丸いパンが一つ載った。割ると黒いものは何もなく、湯気と甘い麦の匂いが立つ。

バルガンは食堂の扉を開け、腹をすかせた客たちへいつもの声を張った。

「朝食は鐘が二つ鳴ってからです」