未送信では遅すぎる
「言えないことは、音声メモに入れておけばいいよ」
ダンス公演の相棒、柚木貴臣は早乙女綾乃へそう教えた。振りを忘れたときも、悔しくて眠れない夜も、声にすれば頭が整理される。送らなければ誰にも聞かれない。
最終公演の前夜、綾乃は練習室で一人、スマホへ話した。
「明日で貴臣とのペアは終わる。次は別の人と組む」
「仕事だから笑う。でも、手を離す練習だけはできなかった」
「好きって言えないなら、せめて相棒に戻りたい」
録音を止め、保存するつもりで触れた指が、共有ボタンを押した。直近の宛先に表示された《柚木貴臣》へ、そのまま送信される。
綾乃は慌てて削除したが、再生済みの印がついた。
翌日の公演中、貴臣は何も言わなかった。最後の曲、二人が向かい合い、手を取って回る。貴臣の掌は、練習で何百回も知った温度だった。決められた振りでは、音が切れた瞬間に離れるはずだった。次の相手と踊るために、綾乃はその一秒だけを何度も練習したのに、本番では身体が覚えていた別れ方まで忘れた。
照明が落ち、拍手が上がる。
綾乃は手を放そうとした。けれど貴臣は離さない。暗転の中、指を握り直し、そのまま舞台袖まで連れていく。
「振り、間違えてる」
「公演は終わった」
スタッフが次々と通り過ぎる。貴臣はペア名が書かれた楽屋札を外し、裏返した。白い面にペンで《綾乃・貴臣/次の日曜》と書く。場所は、二人が初めて練習した市民スタジオだった。
「次の相棒、決まってるんじゃないの」
「仕事の相棒は決まった。日曜に会う相手は、今決めた」
綾乃は札の《早乙女》ではなく《綾乃》と書かれた部分を指でなぞる。貴臣の手を引き寄せ、今度は自分から指を絡めた。
「音声メモ、消して」
「消さない。返事の代わりに、続きを録る」
彼はスマホの録音を始め、つないだ手を画面の前へ持ち上げた。言葉ではなく、衣擦れと二人の笑い声だけが残る。
言えないことは、音声メモへ入れておけばいい。
けれど送ってしまった声は、未送信のまま終わるはずだった二人を、次の約束へ連れ出した。