本棚の最上段
編集者の阿澄が在宅で仕事を始めると、猫の「トロ」は本棚の最上段へ上るようになった。
机を見下ろせる場所で、原稿の赤字を入れるたび尾を揺らす。阿澄が電話で「この結末は弱いです」と言うと、棚の上から欠伸が落ちてくる。
締切前の水曜、阿澄は朝から同じ三頁を読み続けていた。直しても直しても文章が硬い。昼食も忘れ、コーヒーだけが冷めていく。
午後、棚の上で音がした。トロが一冊の本を落とした。
古い料理随筆だった。床へ開いた頁には、焼き林檎の話が載っている。阿澄が子どもの頃、母と作った本だ。
「今それ?」
トロは知らぬ顔で前脚を舐める。
阿澄は仕事を中断し、台所で林檎を半分に切った。芯へ砂糖とバターを入れ、オーブンへ置く。焼けるまでの間に原稿を読み直すと、直すべき一文が不意に見えた。
夕方、部屋に林檎と焦げた砂糖の匂いが満ちた。トロは本棚から下り、オーブンの前で鼻を動かす。猫には食べさせられないので、代わりの餌を皿へ入れた。
原稿を送信したあと、阿澄は焼き林檎を食べた。熱い果肉は匙で簡単に崩れた。
翌日、料理随筆を元の場所へ戻した。最上段ではなく、手の届く棚へ。
トロはまた上へ登り、今度は何も落とさず眠った。阿澄が新しい原稿を開くと、棚板から猫の体温が木を伝い、本の背をわずかに温めているように見えた。
締切のない日曜、阿澄は料理随筆を最初から読んだ。トロは机ではなく隣の椅子で眠り、ときどき頁へ尾を載せる。母へ焼き林檎の写真を送ると、砂糖はもっと少なかったと返事が来た。次は一緒に作る約束をする。午後、本棚を整理し、落とされても困らない本だけを最上段へ並べた。トロはすぐ上り、新しい配置を一冊ずつ嗅いだ。紙、林檎、冷めたコーヒー。部屋の匂いが文章より先に、一日の結末を整えていった。
夜、阿澄が灯りを消すと、トロは棚から机へ降りた。閉じた原稿の上を一度歩き、椅子へ丸くなる。紙には小さな足跡と、焼き林檎の甘い香りが残った。