栞のない最終号
久瀬邑子は、居酒屋の卓上に校正紙を広げた。文芸サークル最後の会誌は、印刷所へ送られないまま赤字だらけになっていた。大学から部費の打ち切りを告げられ、後輩も入らず、三人は今夜の飲み会で解散を決める。
「飲み物の横に原稿置くなよ」
登坂廉がグラスを遠ざける。
「もう本にならないんだから、濡れても同じ」
「そういう言い方するなら、持ってくるな」
栂野慧は枝豆の殻を、きれいに三列へ並べていた。編集長の癖だった。
邑子には新人賞の最終候補に残った作品がある。来月、東京の編集部へ呼ばれる。
「受賞したら、この会誌に載せた版はなかったことにする」と彼女は言った。
「俺たちの赤入れも?」
「プロになるなら、自分で書いた顔をしなきゃいけないから」
廉は笑ったが、目だけが笑わなかった。春から出版社の営業になる。小説を選ぶ部署ではない。
「俺は、他人の本を売る。邑子は自分の本を書く。慧は?」
慧は故郷の図書館で働くという。非正規で、月給は安い。それでも、閉架書庫の整理をしたいと話した。
「書かないのか」
「書くよ。誰にも見せないだけ」
「それは書かないのと同じだ」
「見せないと存在しないと思うの、文芸サークルの病気だよ」
三人は黙った。注文用端末が明るく点滅し、延長を促していた。
廉が解散届の代表者欄に署名した。慧は会誌データを共有フォルダから削除する時刻を決め、邑子は校正紙を鞄へ入れようとした。
「それ、持っていくの?」
「参考にする」
「何の」
「直さなかったところの」
邑子の声は強かった。強すぎたので、二人には怖がっていると分かった。
終電の早い慧が先に席を立った。次に邑子が編集部からの電話を受け、店の外へ出た。廉だけが残り、三人分で頼んだ瓶の底を眺めた。
校正紙が一枚、座敷の下へ落ちていた。冒頭には慧の字で、〈ここから先、主人公が一人で決めすぎる〉とある。邑子の返事はない。
廉はそれを拾い、空いた椅子の上に置いた。栞を挟む本も、戻ってくる読み手もないのに、紙だけはページを閉じさせまいとしていた。