栞は耳で読む
鷹架絹枝は、図書館の返却カウンターで働いている。
本が戻るたび、汚れを確認し、棚へ返す。誰かの手を渡ってきた紙には、香水や雨や珈琲の匂いが少しずつ残る。
絹枝はそれらを好んでいたが、人の相談を聞くのは苦手だった。正しい本を薦められなければ、相手の一日まで間違わせる気がした。
家には、垂れ耳の兎がいる。
姉の転勤で預かったまま四年になる。名は栞。
絹枝が声に出して本を読むと、頁をめくる音の隙間に、栞の声が心へ届いた。
『その王子は、話を聞かなすぎる』
「物語だから」
『物語でも耳は二つある』
「あなたのは大きすぎるけどね」
栞は牧草を噛みながら、片耳だけ上げた。
ある日、常連の高校生が「何を読んでも頭に入らない」と言った。
受験を控え、家でも学校でも勉強の話ばかりらしい。絹枝は役に立つ本を探そうと、学習法、集中力、進路の棚を何度も往復した。
結局決められず、「また明日、探しておきます」と答えた。
帰宅しても、その顔が頭から離れなかった。
絹枝は栞の前で、昔から好きな絵本を開いた。
森の動物が雨宿りするだけの、短い話だ。
「こんな本を薦めても、逃げだと思われるかな」
『雨の日に屋根を薦めるのは、逃げではない』
「でも、受験には役立たない」
『頁を閉じても、物語は怒らない。人間も一度閉じればよい』
栞の声は、牧草を噛む音と同じくらい静かだった。
翌日、絹枝は高校生へその絵本を渡した。
「勉強には直接役立ちません。でも、十分で読めます」
高校生は少し驚き、借りていった。
一週間後、「久しぶりに本を最後まで読めた」と返却した。表紙には、雨上がりの匂いがする気がした。
その夜、絹枝は仕事用の資料を開かず、栞の隣で同じ絵本を読んだ。
読み終えてもすぐ閉じず、二人で最後の頁を眺める。
湯呑みには薄いカモミールティー。栞の牧草には夏の日向の匂いがある。
『今日は、よい本を選んだ』
「誰に?」
『高校生と、お前に』
絹枝が耳の付け根を撫でると、栞は目を細めた。
外では雨が降り始めていた。頁を閉じたあとも、温かな屋根の気配だけが部屋に残っていた。