橋を渡る速さ
二十九歳の名取理沙は、実家へ戻るかどうかを三か月決められずにいた。母は「家賃がもったいない」と言い、地元の会社の求人まで送ってきた。今の仕事に強い未練があるわけではない。けれど戻れば、二十代の残りまで誰かが決めた順番で進む気がした。
一方で、東京に残りたい理由も言葉にできなかった。好きな店がある、夜の川がきれい、知り合いがいる。そんな小さな理由で家賃を払うのは幼い気がして、返事を先延ばしにした。更新期限は翌日だった。大学進学も最初の就職も、家族が安心するほうを選んだ。東京へ出たことだけが唯一の反抗だったのに、仕事が忙しくなると町を知る余裕もなくなった。残ると言えば自立を証明しなければならず、戻ると言えば失敗を認めるようで、どちらの言葉も口にできなかった。
仕事帰り、川沿いでハンドパンを叩く三崎レオに出会った。金属の丸い楽器から、水滴のような音が跳ねる。理沙は歩道橋の入口で足を止めた。向こう岸へ渡れば不動産会社、こちら側を戻れば駅だった。
三崎が演奏を止めずに聞いた。
「橋は、渡る前と渡った後、どちらが長いですか」
「同じでしょう」
「では、この曲が終わるまで、一度も後ろを見ずに渡ってみてください」
何の役に立つのか分からない。だが三崎の指はもう一定の間隔で音を落としている。理沙は橋へ足を乗せた。途中で母から着信があった。画面に〈更新、どうするの〉と出る。振り返れば駅へ戻れる。歩みを止めると、川面から風が上がり、スカートの裾を押した。
一歩ずつ進むうち、向こう岸の窓に、不動産会社の白い明かりが見えた。理沙は残る理由をまだ説明できない。けれど、戻る理由を他人の言葉だけで作るのも違うと思った。
最後の音が消えたとき、彼女は橋の反対側にいた。母への返事はまだ打てない。不動産会社は閉店五分前で、入口の札を裏返そうとしている。
理沙は走って扉を押さえ、「更新の相談ではなく、この近くの部屋を見たいんです」と言った。