歌えない歌姫と一音の共犯

《ルルナの歌が封じられたらただの一般人》

《隣の音響係、戦闘職ですらないだろ》

《静寂公の領域でコラボは無謀》

人気歌唱配信者ルルナ・ベルが口を開いても、声は出なかった。彼女は喉へ触れたが、怯えた顔はせず、音響卓にいた頃と同じように朔の指先だけを見る。白い仮面の静寂公が指揮棒を振るたび、空気から一種類ずつ音が奪われていく。剣戟、足音、呼吸。最後に残ったのは、胸の内側で鳴る鼓動だけだった。

音響技師の五十鈴朔は、腰の工具箱から銀の音叉を取り出す。

ルルナが唇だけで問う。

――歌える?

朔は首を横に振り、それから一本指を立てた。

静寂公が最後の指揮を始める。鼓動まで奪われれば、二人とも倒れる。

《領域内は外部振動ゼロ、骨伝導も遮断》

《音叉を鳴らしても音になる前に消される》

《ルルナ、逃げろってコメントも届かないのか》

朔は音叉を床へ打ちつけず、自分の奥歯へ一度だけ当てた。初対面の打ち合わせで、ルルナは『基準音を一つくれれば、暗闇でも歌える』と冗談めかしていた。朔だけがその言葉を、舞台上の約束として覚えていた。音のない空間で、彼は彼女へ一歩近づく。

澄んだ一音が、彼の頭蓋からルルナの額へ伝わった。二人が額を合わせていたのだ。

ルルナの瞳が見開かれる。

彼女は声のないまま、その一音に正確な旋律を重ねた。空気は鳴らない。それでも魔力だけが歌の形を取り、静寂公の指揮棒を内側から粉砕する。奪われた音が一斉に戻り、最後の高音だけが大聖堂を揺らした。

「一音しか渡してないよ?」

「あなたなら、そこから全部思い出せると思った」

《頭蓋振動ログ確認、一音だけ領域判定の内側で発生》

《朔が基準音、ルルナが無音詠唱。どっちが欠けても成立しない》

《音響係じゃない。歌姫の声を世界に戻した相棒だ》

ルルナは朔の手から音叉を取り、マイクの隣へ掲げた。

「次のライブ、一曲目のクレジットは共同名義ね」

迷宮配信プラットフォームの速報が画面を覆う。

【公式認定:世界初・完全静音領域内での魔法歌唱成功】