止まると近づく
柞木ほのかは、夜の学校で一人、忘れた絵の具箱を探していた。
文化祭前日の校舎は、段ボールと色紙の匂いがした。美術室から廊下へ出ると、非常灯の下に小さな男の子が立っていた。
名札には「槐」とだけ書かれている。
古い制服だった。
「お母さんがいない」
ほのかが一歩近づくと、槐は遠ざかった。
走って追うと、足音だけが先へ逃げる。
ところが、ほのかが立ち止まると、槐は一歩こちらへ近づいた。
また止まる。
一歩近づく。
ほのかが動けば、槐は同じだけ離れる。
「面倒くさい子」
「お姉ちゃんが動くから」
二人は、だるまさんがころんだのように少しずつ距離を縮めた。
槐は三十年前、この学校に併設されていた小学校の児童らしい。豪雨で避難所になった夜、母親とはぐれたと言った。
それ以上は何も話さなかった。
ほのかは体育館へ連れていこうとしたが、自分が歩けば槐が遠ざかる。
そこで廊下の床に座った。
「私も、明日逃げる予定」
「何から」
「絵から」
文化祭で、ほのかの絵が展示される。
母を描いた大きな肖像画だった。
母は去年、家を出た。
父とは離婚し、知らない町で暮らしている。連絡はあるが、ほのかは返していない。
絵を描き始めた頃は会いたかった。完成が近づくほど腹が立ち、明日の朝、誰にも見られないうちに破るつもりだった。
槐は立ち止まったまま尋ねた。
「顔、忘れたくないの」
「忘れたい」
「じゃあ、どうして描いたの」
「忘れられないから」
槐が一歩近づいた。
ほのかは動かなかった。
「お母さん、迎えに来なかったの?」
槐はうなずいた。
「でも、ずっと探してる」
「見つかると思う?」
「見つからないかもしれない」
その声は寂しそうではなかった。
長いあいだ同じ場所で待った人の、静かな声だった。
槐はとうとう、ほのかのすぐ前まで来た。
手を伸ばせば届く。
けれどほのかが手を動かせば、また離れるだろう。
だから、手を伸ばさずに言った。
「一緒に待とうか」
槐は首を振った。
「お姉ちゃんは、動いていいよ」
その瞬間、体育館のほうから女の声がした。
名前を呼ぶ声だった。
槐は廊下の奥を見て、笑った。
ほのかが振り向いても、誰もいない。
もう一度前を見ると、槐もいなかった。
翌朝、ほのかは絵を破らなかった。
肖像の端に、小さな男の子を一人描き足した。母の隣ではなく、少し離れた場所に。
文化祭が終わった夜、母へ写真を送った。
返事はすぐ来た。
《見に行ってもいい?》
ほのかは廊下で立ち止まり、それから自分の足で一歩進んだ。