母の味を捨てる
母の煮込みは、甘すぎた。
砂糖を入れるたび、母は「家族は同じ味を好きになるもの」と言った。雛乃が残せば椅子に縛りつけ、私がかばえば二人分の皿を冷蔵庫へ戻した。翌朝も、その次の夜も、食べ終えるまで同じ鍋が出た。母が台所を離れた隙に、私はよく砂糖壺へ手を伸ばした。雛乃が顔をしかめるのが面白かったのではない。母が妹を叱っている間だけ、私には怒鳴り声が向かなかった。
逃げた部屋で、雛乃は料理をしなくなった。包丁を握ると吐き気がするというので、私が三食作った。献立も量も私が決め、外食は断った。知らない味は記憶を刺激するかもしれないからだ。雛乃が自分で塩を足そうとすると、私は手首をつかんだ。味覚が混乱していると説明し、私が一口目を確認してからでなければ食べさせなかった。
ある日、母の遺品が宅配便で届いた。死んだと聞いても涙は出なかった。箱の底に、油染みのついたレシピ帳があった。
雛乃はそれを抱きしめた。
「一冊だけ、取っておきたい」
「毒と同じだよ」
私は奪い、流しの上で一枚ずつ破った。雛乃は止めなかった。ただ、最後のページだけを拾い、黙ってポケットへ入れた。
その晩、雛乃は夕食に手をつけなかった。私が理由を聞くと、ポケットから折れた紙を出した。
母の字で、煮込みの分量が書かれていた。余白には日付と短い記録が並んでいた。
〈珠希が砂糖を増やした。雛乃が叱られるのを見て笑っていた〉
〈鍋を捨てようとしたら、珠希が泣いて止めた〉
〈あの子も被害者だと思いたい。でも雛乃を二人きりにしてはいけない〉
「嘘だよ」
私はすぐ言った。紙の最後には〈雛乃だけでも親戚へ預けたい〉とあった。私を置いていく相談を、母はずっとしていたのだ。母は最後まで私たちを分けようとしている。
雛乃は私を見ず、「明日、支援員さんのところへ行く」と言った。私も同行すると答えると、一人で行く、と繰り返した。
翌朝、雛乃の椅子は空だった。鍋には二人分の煮込みが残った。私は味を確かめ、砂糖を一匙足した。
家族は、同じ味を好きになるものだから。