母の牛乳は三倍
向坂柊吾は帰宅途中、無人店で缶詰を買う。棚から取るだけで顔が読み取られ、信用点数に応じた価格が口座から落ちる。八七四点の柊吾なら、表示価格より少し安い。
実家へ寄った夜、母の千佐が牛乳一本を戻そうとしていた。
「高くなったねえ」
棚札は二百円だった。だが千佐の決済画面には六百四十円と出ている。信用点数三一〇。商品価格は、千点から自分の点数を引いた割合だけ上乗せされる。
「昨日まで七百点あっただろ」
柊吾が履歴を開くと、減点は一件だけだった。
《近隣住民三名から“不安を感じる”との評価を受信》
千佐は軽い認知症で、同じ家の呼び鈴を二度押したらしい。迷惑行為の記録も、警察への通報もない。ただ三人が不安だと押しただけで、牛乳は三倍になった。
「俺が払う」
柊吾が顔を向けると、二百二十五円で決済された。牛乳を母へ渡そうとした瞬間、天井のカメラが赤く光る。
《購入者と消費予定者の不一致を検出》
《信用価格の迂回に該当します》
同じ商品なのに、誰が飲むかで値段が変わる。
不足分四百十五円の追加決済が表示された。柊吾は迷わず承認した。
すると今度は、自分の信用点数が更新される。
《低信用者への価格援助を確認》
《市場判定への介入として五十五点を減算》
八一九。
母は牛乳を胸に抱え、「私のせい?」と聞いた。
「違う。機械が計算を間違えた」
柊吾は笑ったが、次に買った母のパンも、薬も、暖房用の電力も、すべて三倍近い値段だった。彼が払うたびに自分の点数が下がり、価格差が少しずつ大きくなる。
最後に、千佐が毎朝買う一番安い食パンを手に取った。
柊吾の画面は四百九十円。
千佐の画面は七百二十円。
レジが尋ねる。
《どちらが消費しますか》
千佐は何も分からない顔で、柊吾を指した。
「この子に食べさせます」
判定は柊吾の価格を採用した。
母は自分が食べるパンまで、息子のためだと嘘をついた。信用点数三一〇の声を、店はその時だけ信用した。
帰り道、柊吾は牛乳を持つ母の手を支えた。端末には《継続的な信用価格迂回を監視します》という通知が残っていた。
明日も母が朝食を取れば、彼の点数はまた下がる。二人の値段が同じになるまで。