母の知らないチャンネル名
鳴海佐和の母は、娘がゲームをすることを知らなかった。
二十六歳にもなって隠すことではない。そう思うたび、佐和は母の「画面ばかり見ていると心が痩せる」という口癖を思い出した。だから週三回の配信も、五万人の視聴者も、実家では存在しないことにしていた。
母が米と煮物を持って突然来た日、佐和は配信部屋の扉を閉め忘れた。
机の上にはマイク、照明、二台のモニター。壁には配信者〈サワラ〉の魚型ロゴ。さらにスマートスピーカーが明るく告げた。
《サワラさん、今月の応援ポイントが確定しました》
母は鍋を抱えたまま立ち尽くした。
「これ、何。知らない人からお金をもらってるの?」
「違う。配信の収益」
「顔も知らない人に、毎晩話してるの?」
「顔は出してない。毎晩でもない」
言い訳するほど、怪しいものに聞こえた。佐和はスマートスピーカーの電源を抜いた。
母は魚のロゴを指でなぞった。
「サワラって、あなたなの」
「そうだけど」
母は困ったように眉を寄せ、エプロンのポケットからスマートフォンを出した。動画アプリを開く。履歴の先頭に、〈サワラの迷子実況〉が並んでいた。
視聴者名は〈ふきこぼし注意〉。
佐和は何度も見た名前だった。迷路で方向を失うたび、「鍋なら焦げてる」とコメントしてくる人。配信終了には必ず「戸締まりして寝なさい」と書く。
「お母さんだったの?」
「声が似てるとは思ってた。でも、まさかね」
母は煮物の鍋を机に置いた。
「心が痩せるって言ったのは、昔の私がテレビばかり見て何もしなかったから。あなたまで同じだと決めつけてた」
佐和は、隠していた年月ぶんだけすぐには笑えなかった。
「嫌じゃないの」
「知らない人に夕飯を忘れさせるくらい話すのは嫌」
「それ、私が忘れる側」
「なお悪い」
母は配信部屋の厚いカーテンを少し引いた。
「西日、画面に映るでしょう。ここまで閉めなさい」
その夜、佐和は配信を始めた。最初のコメントは、いつもより早かった。
〈ふきこぼし注意:煮物は冷蔵庫。配信してること、今度は自分から言いなさい〉
佐和は魚のロゴを隠さず、声を上げて笑った。