母語を置く門
二つの国の民が結婚するとき、どちらか一人が〈母語の門〉をくぐる。
門の向こうで新しい国籍を得る代わりに、生まれた国の言葉をすべて失う。
昔の歌も、母の呼び声も、自分の名が最初にどう発音されたかも、二度と思い出せない。
カヤティとエシュモは、国境の市場で出会った。
二人は互いの言葉を少しずつ覚え、七年かけて、冗談も喧嘩もできるようになった。
結婚を決めた春、門番が訊いた。
「どちらが国籍を変える?」
カヤティの母国には、亡き妹が最後に歌った子守歌がある。
エシュモの母国には、処刑された父が彼へ残した一言がある。
どちらも、忘れることを選べなかった。
「私が行く」
夜になるたび、カヤティは言った。
「君の妹の歌を、僕は代わりに覚えられない」
「ではあなたが」
「父の最後の言葉を、君の国の発音にしたくない」
二人は相手を愛していた。
だから、忘れてほしいとは言えなかった。
婚礼を取りやめた日、二人は門の前で最後の食事をした。
カヤティはエシュモの国のパンを焼き、エシュモは彼女の国の香草茶を淹れた。
「別々の国籍のまま、会い続けることはできる」
カヤティが言う。
「国境が閉じなければ」
「戦争が始まらなければ」
「役人が通行証を認めれば」
条件を数えるほど、未来は細くなった。
翌月、両国の関係が悪化し、市場は閉鎖された。
最後の通行日に、二人は柵越しに立った。
カヤティはエシュモの母語で言った。
「あなたを愛していました」
エシュモは彼女の母語で返した。
「今も愛しています」
過去形と現在形が、国境の上ですれ違った。
門は閉じた。
二人は母語を失わなかった。
その代わり、互いの声を失った。
何年後も、カヤティは妹の歌を歌えた。
エシュモも父の言葉を覚えていた。
守った言葉の中には、もう会えない恋人から教わった発音が残っていた。
国籍を変えなかったために別れた二人を、二つの母語だけが、ひそかに同じ文章の中へ結び続けた。