水たまりの面接室

大庭真帆は、面接会場の入口まで来て、帰ろうとしていた。

求人票には「新規事業の経験者歓迎」とある。真帆にあるのは、小さな旅行会社で予約変更と苦情対応を続けた六年だけだった。応募書類は通ったが、たまたまかもしれない。ロビーへ入れば、経歴の足りなさを面接官の前で確認される。雨のせいで靴も濡れ、髪も少し広がっていた。帰る理由は十分そろっていた。

けれど六年間、欠航で足止めされた客の宿を探し、怒鳴る相手の要望を聞き分け、現場の手順を何度も組み替えてきた。その仕事を「予約変更だけ」と小さく呼んでいるのは、面接官ではなく真帆自身だった。

建物のひさしから一歩出たところで、長靴の女の子が大きな水たまりを覗き込んでいた。保育園の帽子に「めぐ」と書かれている。迎えの祖父は、少し離れた自動販売機で飲み物を買っていた。

「ビルが逆さまだね」と真帆が言うと、めぐは水面へ指を差した。

「こっちの入口、どこ?」

「水の中には入れないよ」

「じゃあ、逆さまの人はずっと面接できない?」

真帆が驚いて顔を見ると、めぐは受付案内を読めないまま、「めんせつ」の音だけ拾ったらしい。水たまりの縁を、落ちないよう両腕を広げて歩き始めた。

「おねえさんも一周して。踏んだら、もう一回」

帰りたい大人へ出す課題としては、ずいぶん遠回りだった。真帆はパンプスの先を濡らさないよう、縁石と白線の細い隙間を歩いた。半周で後ろから来た人を避け、少し水へ入った。

「踏んだ」

めぐは嬉しそうに笑った。

「でも、足なくならなかったね」

祖父が戻り、めぐを抱き上げた。女の子は真帆へ手を振りながら、長靴で水面のビルを壊していった。逆さまの入口も、面接室も、波の中で形を失った。

真帆の靴には、小さな泥の点がついていた。完璧な応募者の足ではない。けれど足はなくならず、入口は目の前に残っている。

鞄の中の職務経歴書は、雨を吸って角がわずかに波打っていた。予約変更で怒鳴る客へ説明した日も、欠航便の代案を一晩で組んだ日も、求人票の『新規事業』という言葉ほど立派には見えない。それでも、真帆が実際にしてきた仕事だった。

自動扉が一度閉まりかけた。真帆は濡れたつま先を隠さず、扉の前へ戻った。

受付で名前を告げ、面接番号の札を受け取った。