水槽の内側から
両親が別々に暮らし始めてから、少年は月に二度、父と水族館へ行った。
母の家では父の話をせず、父の部屋では母の話をしない。
二つの家を混ぜると、どちらかを裏切る気がした。
水族館の売店で、青い指輪型の翻訳機を借りた。
水槽のガラスへ指輪を当てている間だけ、魚の声が聞こえるという。
大水槽へ触れると、銀色の魚たちの声が重なった。
「右から冷たい水」
「上に影」
「餌ではない」
人間の悩みを聞いてくれる雰囲気ではない。
少年は一匹の大きな魚へ尋ねた。
「家が二つあるのって、変?」
魚は向きを変えた。
「水は一つ」
「水槽は一つだろ」
「流れは二つ。右から冷たい。左から温かい」
大水槽には、違う温度の水が流れ込み、その境目を魚が行き来していた。
少年は納得しなかった。
「魚は好きな方だけにいられる?」
「いられる。飽きる。戻る」
父が隣で、説明板を読んでいた。
少年が翻訳機を使っていることを、遊びだと思っている。
次の水槽には、二匹の魚が岩を挟んで暮らしていた。
「仲が悪いの?」
「近すぎると噛む。離れると同じ餌を待つ」
少年は少し笑った。
帰り道、父が尋ねた。
「今日、何か欲しい物ある?」
いつもなら母の家に置く物か、父の部屋に置く物か迷い、何もいらないと答える。
少年は売店で小さな魚のキーホルダーを二つ買った。
一つは母の家。
一つは父の部屋。
「同じの二つ?」
父が聞く。
「二つある方が、なくさないから」
その夜、母へ水族館の話をした。
父と行ったことも隠さなかった。
母は一瞬だけ寂しそうな顔をし、それから魚の写真を見た。
「楽しそうだね」
少年は、その一瞬を見なかったことにしなかった。
母も寂しく、少年も楽しかった。二つとも同じ会話にあってよかった。
翌月、父の部屋で母から電話が来た。
少年は隠れず出た。
二人の声が同じ部屋に重なっても、何も壊れなかった。
翻訳機を返すとき、少年は大水槽の魚へ最後に聞いた。
「どっちの流れが本当の水?」
魚は群れの中へ消えながら答えた。
「泳いでいる場所が水」
少年は二つの家を、一つへ戻したいとは思わなくなった。
どちらも、自分が息をしてよい場所なら、それで十分だった。