油揚げの中の音

大隅弦太の鞄には、明日から使う安全靴と、昨日まで首から下げていたスタッフパスが入っていた。

 音楽イベントの制作会社を辞め、工場の設備保全へ転職する。夜通しの設営も、出演者の無理な変更も、給与の遅れも限界だった。それでも、照明が落ち、最初の音が鳴る直前の暗闇を、弦太は誰より好きだった。

 転職先の採用担当は、機械の異音を聞き分けるには経験が必要だと言った。弦太は、音なら慣れていると反射的に答えたが、ベースの低音と軸受けの摩耗音を同じ耳で語ったことが、あとから恥ずかしくなった。

 最後の現場でスタッフパスを返し忘れた。郵送すればいい。なのにゴミ箱へ捨てることもできず、明日の荷物へ紛れ込ませている。

 居酒屋「八分音」で、店主は油揚げの納豆挟み焼きを作っていた。開いた油揚げへ納豆と刻み葱を詰め、爪楊枝で口を留める。網へ載せると、皮がぱちぱちと乾いた音を立てた。醤油を塗った表面から香ばしい煙が上がり、中からは発酵した豆の匂いがゆっくり漏れた。

「明日の仕事、機械の音を聞いて故障を探すらしいです」

「耳は使うんだな」

「ライブとは全然違いますけど」

 店主は油揚げを裏返し、膨らんだ中央を箸で押した。中で納豆が、ぷつ、と小さく鳴った。

 弦太は採用面接で、イベント制作の経験を「突発対応力」と言い換えた。嘘ではないが、本当に役立つのかは分からない。工場では新人で、工具の名前も半分しか覚えていない。好きだった仕事を続けられなかった人間が、別の現場で粘れるのかも分からなかった。

「パス、返さないとまずいですよね」

「明日使わないなら、鞄の奥でいいんじゃないか」

 弦太はスタッフパスを取り出し、裏に書かれた最終公演の日付を見た。今夜帰ったら封筒へ入れる。ただし、首紐だけは残すことにした。明日の安全靴の袋へ結び、工場へ持っていく。過去を捨てたふりをするより、その耳で新しい音を覚えたかった。

 油揚げを噛むと、表面は軽く割れ、中の納豆は熱く粘った。焦げた醤油の匂いの奥で、葱の青さがまだ消えずにいた。