海を畳む

木ノ瀬透乃は、白樺写真室の壁いっぱいに垂れた青い背景布を見て、子どものころの舞台みたいだと思った。

布には、水平線と白い雲が手描きされている。近くで見れば絵の具はひび割れ、右下には長い裂け目があった。透乃は沿岸の資料館から、古い航海図を修復する仕事に誘われていた。東京を離れるのは怖い。海辺で暮らした経験もない。返事の期限は今夜なのに、履歴書用の写真だけ撮って、応募そのものは断るつもりでいた。

「無地でお願いします」と言うと、店主は灰色の布へ手を伸ばした。だが青い背景布の裂け目に気づき、先にそこへ腰を下ろした。裁縫箱から青い糸を選び、表から見える大きな針目で、裂け目を縫い合わせていく。

補修は上手とは言えなかった。海面に一本、濃い波が増えたようになった。それでも布を引き上げると、裂け目は広がらず、雲も水平線も落ちてこない。

店主は灰色の布を掛ける前に、青い布を畳もうとした。山折りにされた海が半分になり、さらに半分になった。透乃は、知らない町へ行くことも、今までの暮らしを捨てることだと思っていた。けれど目の前の海は、畳まれても海の色を失わなかった。

「それで撮れますか」

店主は手を止めた。青い布をもう一度広げ、縫い目が透乃の肩の後ろへ来るよう位置をずらす。椅子を正面ではなく少し斜めに置き、レコード棚から波音の入らない古いボサノヴァを選んだ。

撮影の直前、透乃はジャケットの襟を直した。背景の海は本物ではない。ひびも縫い目もある。それなのに、灰色より嘘が少ない気がした。

会計で店主は、写真を紺色の薄紙に挟み、履歴書用の封筒と同じ幅に裁った厚紙を添えた。余った薄紙は捨てず、小さく畳んで返してくれた。

店を出た透乃は、資料館からのメールを開いた。承諾の文面を何度も直し、最後は二行だけにした。

〈お受けします。住まいはこれから探します〉

送信すると、鞄の中で青い薄紙がかすかに鳴った。

海は持って行けないと思っていたが、畳めるものもあるらしい。