海鳴りのない船長
鳥生理央は海を見たことがないまま、貨物船の船長になった。
正確には、陸上管制室から無人船を操る船長だった。理央がその仕事を選んだのは、危険な海へ出ずに済むからだ。父を水難事故で失って以来、学校のプールにも入れなかった。画面越しなら海は数字の集合で、自分の臆病さを誰にも知られずに済んだ。しかも給料は、海へ出る仕事よりよかった。
会社は採用条件として、熟練漁師の航海記憶を購入させた。波の形、雲の厚み、潮の匂い。センサー数値を読むより速く危険を察知できるという。
接続した日から、理央の体には存在しない揺れが残った。風呂の水面を見れば嵐を思い出し、ビルの谷間で潮の匂いを嗅いだ。眠ると、知らない妻が港で手を振った。
記憶の持ち主は、二十年前に遭難した漁師だった。最後の航海だけが欠落していた。遺族が売却前に削除したらしい。
ある夜、理央の船が台風圏へ入った。航路AIは最短経路を維持せよと命じたが、借りた体験が全身で拒んだ。右の耳奥で、古い漁師が「戻れ」と叫ぶようだった。
理央は命令に背き、積荷を捨てて船を迂回させた。結果、船は助かったが、会社は彼を停職にした。予測上、直進でも生存率は九十八パーセントだったという。
査問の日、漁師の娘が現れた。理央の購入履歴から連絡を受けたのだ。
「父も最後に、会社の指示を無視したんです」
彼女は削除されていた記録を見せた。遭難した船には、密航していた親子がいた。漁師は二人を救命艇へ移すため引き返し、自分だけ帰れなかった。
理央が感じた恐怖は、死への恐怖ではなかった。置いていくことへの恐怖だった。
停職中、理央は初めて本物の港へ行った。海は記憶より明るく、思ったより臭く、足元は頼りなかった。漁師の娘と防波堤に立ち、遠くの船を見た。
復職の条件は、航海記憶を初期化することだった。
理央は拒み、港の小さな救難会社へ移った。借り物の過去に操られたのではない。それを知ったうえで、同じ方向へ舵を切る人生を選んだのだ。