清掃員の界断ち
「足元の白線から、下がってください」
地下迷宮鉄道の第三ホームで、清掃員フェリクは一日に百回、その文句を繰り返す。
列車を待つ冒険者たちは、泥のついた長靴で白線を踏み、魔物の牙を土産話に笑う。誰も、黄色い作業帽の男を見ない。フェリクは黙って泥を削り、魔導灯に群がる洞窟蛾を集め、線を白く塗り直した。
終電間際、少年ノアの木彫りの竜が線の向こうへ転がった。
「取っちゃだめ?」
「私が取ります」
フェリクが屈んだとき、トンネルの闇で鉄が擦れた。
列車ではない。線路を押し広げて現れたのは、装甲百足《車喰い》。先頭車両を丸ごと噛み砕く迷宮災害で、ホームの警報石は恐怖のあまりか、赤く光るだけで音を出さなかった。
待合室にはノアと眠った母親しかいない。車喰いは百の脚を鳴らし、白線を越えようと頭を持ち上げた。
フェリクは木彫りの竜を拾い、もう一方の手で腰の床削りを抜いた。刃渡りは指二本分。錆と蝋のこびりついた、ただの清掃道具だった。
百足が突進する。
フェリクは白線に沿って、床削りを一度だけ滑らせた。
銀色の光が線路の上を走る。
次の瞬間、車喰いの百ある脚の付け根が、同時に外れた。巨体は白線の寸前で腹ばいになり、勢いだけが空へ逃げる。さらに甲殻の中央に細い割れ目が生じ、魔核が二つに割れて青白く消えた。
ノアは知っていた。絵本の剣聖が、国境に一本の線を引き、魔王軍を越えさせなかった技。《界断ち》だ。
フェリクは百足の殻を保守用の転送溝へ落とし、黒い体液へ吸着砂を撒いた。欠けた白線は筆で塗り足す。終電の灯が見える頃には、ホームはいつもよりきれいになっていた。
「おじさん、剣聖なの?」
「清掃員です。これは忘れ物」
彼は木彫りの竜を返し、眠る母親を起こさないよう指を唇に当てた。
車内の乗客は、窓の外を流れた青い火花を線路整備の光だと思ったらしい。誰一人、ホームで消えた災害に気づかなかった。
列車が風を押し出す。ノアが思わず一歩前へ出ると、フェリクは冒頭と同じ声で言った。
「足元の白線から、下がってください」