湯加減は自分で決める
父を風呂へ入れるのは、これが初めてだった。
訪問介護の人が雪で来られず、俺が代わるしかなかった。
八十二歳の父は浴室の椅子へ座り、裸になっても偉そうだった。
「湯がぬるい」
「転ぶから立つな」
「背中を強くこすれ」
子どものころ、父は俺を殴った。成績が落ちた日、嘘をついた日、父の機嫌が悪い日。風呂場へ逃げても、濡れた腕をつかまれた。
今は、その腕が細く震えている。
「痛くするなよ」
父が言った瞬間、胸の奥で何かが煮えた。
「俺は、痛いって言ってもやめてもらえなかった」
父は黙った。
背中には転倒でできた青い痣があった。俺は石鹸を泡立て、傷を避けて洗った。
「覚えてるか」
「全部ではない」
「俺は覚えてる」
「そうか」
「それだけ?」
父は排水口を見つめた。
「俺も父親に殴られた」
俺が熱を出した夜、父が背負って病院まで走ったことも覚えている。殴った手と同じ手だった。だから記憶を一色にはできない。それが、いっそう腹立たしかった。そして、少し悲しかった。
「だから何だ」
「理由にはならん」
その言葉を、もっと早く聞きたかった。
「謝れば、俺が優しくなると思うなよ」
「今でも十分優しい」
「違う。あんたと同じことをしないだけだ」
父は小さくうなずいた。
湯船へ移すとき、腰を支えた。父の体は驚くほど軽かった。昔、肩車された記憶まで一緒に浮かび、それが腹立たしかった。
憎い人との思い出に、楽しかった日が混じっている。
楽しかった日があるからといって、殴られた痛みが消えるわけではない。
「熱いか」
「少し」
水を足した。
「これは、俺が決めていいのか」
「自分の湯加減くらい自分で決めろ」
父は温度を確かめ、「これでいい」と言った。
風呂上がり、俺は背中へ薬を塗り、服を着せた。
「また頼めるか」
「介護の人が来られない日だけ」
「分かった」
許したとは言わなかった。
好きだとも言わなかった。
ただ父を寒い浴室へ残さず、俺自身も過去の浴室へ置き去りにしないため、最後まで扉を開けておいた。