湯気の向こうに置く
翻訳の締切を一本終えた夜、叶恵は浴室までスマートフォンを持ち込んだ。
防水ケースに入れ、洗面台の端に立てる。湯船につかる十五分で、新しい依頼が来ていないか三回確認するのが習慣だった。返事が早いことだけが、実績の少ない自分の武器だと思っていた。
画面にはメールアプリが開いている。受信箱の一番上は、納品した原稿への自動返信。その下に、SNSで同業者が投稿した「今月も満枠です」という文字が見えた。叶恵は湯を張りながら、肩の奥が硬くなるのを感じた。自分は今月、予定表に空白が四日もある。空白は休息ではなく、選ばれなかった跡に見えた。
浴槽のふたを外すと、白い湯気が鏡を曇らせた。叶恵は服を脱ぎ、スマートフォンをいつもの場所へ置こうとした。するとケースの内側に、小さな水滴が入っているのに気づいた。先週、湯船の縁から落としたときのものだろう。充電口の近くで、丸い粒が光っていた。
壊れたら仕事ができない。そう思ったのに、指は受信箱を更新していた。新着はない。
叶恵はもう一度、画面を下へ引いた。白い円が回る。何も増えない。そのたびに、休んでいる自分の価値まで更新されない気がした。
玄関のほうで冷蔵庫のモーターが止まり、部屋が急に静かになった。叶恵はスマートフォンを持ったまま、裸足で廊下へ出た。仕事机の上に置き、通知音を消す。浴室へ戻る途中、背後で一度だけ画面が光った。振り返れば確認できた。
叶恵は振り返らなかった。
湯船に肩まで沈む。最初は耳の奥で、通知音の幻が鳴った。依頼だったら。修正だったら。返信が遅れて別の人へ回ったら。考えるたび、体は温まっているのに指先だけが冷たくなった。
浴槽の縁には何もない。時間も確認できない。叶恵は十五分を測る代わりに、湯気が鏡を全部隠すまで待った。曇った鏡には、自分の顔も、仕事をしていない顔への評価も映らなかった。
風呂を出ると、スマートフォンには新着メールが一件あった。通販の発送通知だった。叶恵は開かず、タオルで髪を包んだ。仕事机の画面はまだ光っていたが、部屋の照明を先に消した。
依頼が来ない夜は、何も起きなかった夜ではない。そう言い聞かせるほどの自信はまだない。ただ叶恵は、湯気の向こうへ置いてきた十五分を、取り返すために働き直さなかった。