潮待ちの社員証

離島行きの連絡船が出るまで十分。千田佑一は桟橋のベンチで、新しい社員証を首から下げていた。本社から人口二千人の島へ、期間未定の転勤。表向きは地域事業の立て直しだった。

野上文香が、防波堤の向こうから歩いてきた。

「見送りはいらないって言った」

「返すものがあるから」

文香は透明なカードケースを差し出した。古い社員証の裏に、二人で撮った証明写真の切れ端が入っている。社内恋愛を隠すため、一枚の写真を半分に切り、それぞれのケースへ入れた。佑一の側には文香の肩だけが残っている。写真を撮った無人証明機では、二人とも笑いをこらえられず三度撮り直した。最後の一枚だけ真顔になれたが、切り分けると互いの表情は残らなかった。

「人事に話したの、君なんだろ」

「うん」

「それで俺が飛ばされた」

「そう聞いたなら、そうなんだと思う」

三日前、上司から「野上さんの申告を受け、君には島へ行ってもらう」と告げられた。佑一は、関係を終わらせたい文香が自分だけを追い出したのだと思った。

船員がロープを外し始める。

「写真まで返すのか」

「持っていると、説明できないから」

「誰に」

「まだ言えない」

文香の左手には薄い包帯が巻かれていた。佑一は理由を聞かなかった。聞く資格もないと思った。

「向こうで、元気で」

「君も」

彼はカードケースを受け取り、船へ乗った。タラップが上がる直前、文香が何か言ったが、エンジン音に消えた。

港が小さくなってから、社用携帯に人事部長のメールが届いた。

〈野上さんのハラスメント申告に関する保護措置について。千田さんは証人として接触を避ける必要があるため、一時転勤としました。野上さん本人は島事業への同行を希望しましたが、安全上認められませんでした〉

添付された聴取記録には、文香が上司から掴まれた左手の写真と、〈千田を巻き込みたくない〉という一文があった。

佑一はデッキのゴミ箱へ落としかけたカードケースを引き戻した。古い社員証の裏に、文香の肩だけの写真を差し直す。船はもう、潮に乗って岸から離れていた。