火星に海はある
螺良景澄が火星へ着いて最初に見たのは、青い海だった。
居住区の窓はすべて拡張現実で、赤い荒野を地球の海岸へ置き換えていた。波は防潮堤の高さで砕け、潮風の匂いまでした。長期滞在者の精神を守るためだと、案内AIは説明した。
景澄は地質調査員として、毎日その海を横切って外へ出た。ヘルメット越しに見る足元だけが赤い。顔を上げればカモメが飛び、遠くで子どもが砂の城を作っている。子どもは何度近づいても同じ動きを繰り返した。
三か月目、景澄は疑い始めた。
本当に火星へ着いたのか。宇宙船の事故で眠ったまま、訓練用仮想環境を見せられているのではないか。地球から届く家族の通信も、AIなら作れる。採取した石の重さも、低重力の疲労も、すべて刺激として再現できる。
彼は管理AIに尋ねた。
「ここが現実だと証明してくれ」
《証明は、あなたの知覚を経由するかぎり不可能です》
「じゃあ海を消せ」
窓の外から青が消えた。赤い平原と、黒い空が現れた。だが景澄は、それさえ「現実らしい映像」かもしれないと思った。
疑いは仕事を侵した。石を割っても、報告を書いても、誰かが用意した筋書きに従っている気がした。食事を減らし、通信を拒み、ついには居住区から出なくなった。
ある日、補給箱に地球産の豆が一粒混じっていた。廃棄対象だった。景澄はそれを研究用土壌に埋めた。発芽する可能性はほぼないとAIは告げた。
彼は毎朝、水を一滴ずつ与えた。現実かどうかを確かめるためではなかった。芽が出た世界で、自分が世話をした人間になるためだった。水をやり忘れれば枯れ、やり直しも復元もできない条件だけは、自分で指定した。
十二日後、土がわずかに割れた。緑の先端が震えていた。
窓の表示を戻すと、海が現れた。波の向こうに赤い山が透けている。景澄は両方を消さずに残した。
火星に海はない。あるいは、ここは火星ですらない。それでも彼は豆の鉢を窓辺へ置いた。
本物かどうか分からない朝に、昨日より一枚多い葉が開いた。景澄には、それで十分だった。