火猫のくしゃみでパンが焼ける

パン工房へ火焔猫が入り込んだ瞬間、職人たちは水桶を抱えて裏口から逃げた。

赤い縞の猫型魔獣は、一度くしゃみをするだけで市場一つを焼くと噂される。実際、鼻先から火花が散り、粉袋の表面が焦げていた。

ただ一人残ったのは、今朝解雇を言い渡された窯番エルネだった。

「火加減も分からない役立たず」と親方に罵られたばかりだ。だからこそ、火焔猫の炎が弱すぎると気づいた。

毛は煤け、肋骨が浮いている。威嚇の声にも張りがなく、鼻をひくつかせて見ているのは人間ではなく、発酵中の生地だった。

「お腹が空いて、火も出ないんだね」

エルネは水桶ではなく、失敗作の固い丸パンを持った。火焔猫が牙を剥く。彼女はパンを半分に割り、自分から食べる。残りを床へ置くと、猫は一息に飲み込み、もっとないかと尻尾で床を叩いた。

固いパンでは喉につかえる。エルネは山羊乳に浸し、指で小さくちぎった。火焔猫は最初こそ唸ったが、三口目には彼女の手を舐め、五口目には前足を揃えて待った。

腹が満ちると、今度は盛大なくしゃみをした。

職人たちが外で悲鳴を上げる。

しかし飛んだのは炎ではなく、鼻の穴に詰まっていた小麦粉の塊だった。

「これじゃ息ができないよ」

エルネは濡らした布で鼻先と髭を拭く。火焔猫は目を細め、されるがままになった。最後に煤けた背をブラシで梳くと、赤金の毛並みが現れ、工房全体が夕焼けのように明るくなる。

猫は窯の前へ移動し、エルネを振り返った。

試しに生地を入れると、猫は小さく息を吐く。均一な炎が窯を包み、親方が一度も成功させられなかった黄金色のパンが膨らんだ。

火焔猫の額に印が灯り、同じ炎の肉球がエルネの手の甲へ移る。

戻ってきた親方が「工房へ復職を」と口ごもる。

「この子と私で新しい店を開きます」

火焔猫は賛成するように鳴き、エルネの膝へ丸い頭を押しつけた。抱き上げれば見た目よりずっしりして、胸元に集まった毛は焼きたてのパンの中身ほどふかふかで、冷え切った指を芯から温めた。