無入力の百秒
伏見セナは崩れる吊り橋の中央で、両手を離した。
《LOG OUT》
無入力状態を百秒間維持してください。
入力を検知すると計測を最初からやり直します。
橋の向こうでは出口の門が閉まりかけ、背後から甲冑獣が迫る。走れば助かる。だが走るたび、ログアウトの数字は《100》へ戻った。
ログアウト不能になって二年、誰も百秒を達成できなかった。敵のいない宿で横になっても、視線移動や指先の震えまで入力と判定された。睡眠中も夢に反応してアバターが動く。百秒は永遠より長かった。
「セナ、何してる! こっちへ来い!」
仲間が門から手を伸ばす。セナは答えない。返事も入力になる。
甲冑獣が十歩まで近づく。計測八十九。橋板が一枚落ちる。八十一。
視界の隅で、初期設定の説明文が点滅していた。
《無入力》
アバターからの操作信号ではなく、接続者本人の運動信号が途絶えた状態。
つまり、ゲーム内で動かないだけでは足りない。現実の身体も完全に委ねる必要がある。
セナは恐怖で強張る肩を、意識の中でほどいた。指を握らない。歯を食いしばらない。逃げたいという命令を、一つずつ手放す。
六十。
甲冑獣の剣が振り上がる。
四十。
仲間の魔法が獣へ命中し、爆風で橋が揺れる。セナの身体も傾いたが、立て直そうとしなかった。
二十。
橋が切れた。
落下しながらも、セナは目を閉じたまま何も選ばない。風圧、悲鳴、死の予感。その全部へ反応しない。
三、二、一。
世界が停止した。落下も、甲冑獣も、閉じる門も止まる。
白い手が、ゲームの外側からセナの手首を持ち上げた。理学療法士の声がする。「今から身体を動かします。力を抜いてください」
無入力とは死ではなかった。自分で動かせない身体を、現実の誰かへ預ける合図だった。
仲間は落ちるセナへ回復魔法を投げようとしたが、途中で杖を下ろした。助ける操作さえ、彼女をゲーム側へ引き戻すかもしれない。全員が何もせず見守るという、戦闘より難しい選択をした。
《百秒間の随意運動停止を確認》
《外部補助運動への切替条件を満たしました》
《ログアウト処理を開始します――移動するのはアバターではなく、あなたの意識です》