焦がした出汁の未来

料理コンクール決勝の二十分前、鳥羽瀬仁志のレシピ端末に未来から一文が届いた。

〈塩を〇・三グラム減らし、焦がし葱は最後に入れろ。〉

手元には、祖父の店から持ち出した焦げ跡のある杉の柄杓。審査で九十五点以上を取れば、大手ホテルの料理長契約と、閉店寸前の店を買い戻せる契約金が手に入る。

仁志は指示通りに椀を仕上げた。湯気に鰹の香りが立ち、焦がし葱が甘くほどける。得点は九十三点。結果発表と同時に端末が白く光った。

〈調理開始前へ、一文だけ送れます〉

二周目は醤油を二滴減らした。五周目は火を止める秒数を足した。戻るたび、同じ柄杓が鍋底をこすり、同じ審査員が「惜しい」と言う。九周目、九十四・八点。

未来の仁志は、一文を数字で埋めた。

〈塩0.27減、出汁92度、葱14秒、柚子皮1.8ミリ。〉

十二周目、九十五・二点。拍手の中、ホテル側が契約書を差し出した。成功条件達成。端末には最後の確認が出る。

〈この味を固定するには、起点となった一文を送信してください〉

契約書の別紙には、祖父の店をホテルブランドへ改装し、看板と献立をすべて廃止する条項があった。さらに、決勝で使った「天然出汁」はスポンサー提供の香味調整液を含むことになっている。仁志が周回の途中で一度だけ入れた液体が、最高得点の未来では正式レシピとして登録されていた。

杉の柄杓から、昔の焦げた匂いがした。祖父は失敗した鍋を捨てず、「焦げを覚えろ」と言った。数字で完璧にした味には、その焦げだけがない。

仁志は契約書を伏せ、未来へつながる文を消した。

〈決勝鍋を流しへ捨て、店の権利も契約金も受け取るな。〉

調理開始前へ戻る。

仁志はまだ温まっていない鍋を流しへ運んだ。失格を告げられ、ホテルの契約は消えた。祖父の店は翌月、競売で他人のものになった。仁志は借金だけを抱え、駅前の小さな食堂で雇われた。

初日のまかないで、彼は焦がし葱を少し早く入れすぎた。苦みが残った。

「すみません」

そう言いながら、仁志は杉の柄杓を置かなかった。九十五点ではない味が、もう巻き戻らずに冷めていった。