父の字を急がせない

 父の手が震えるようになってから、私は何でも代わりに書いた。

 病院の問診票。

 銀行の住所変更。

 宅配便の受取人欄。

「ここに名前だけ書いて」

 そう言ってペンを渡すと、父は一文字に時間をかける。後ろに人が並ぶと、私は途中で取り上げた。

「私が書くから」

 父は黙って手を引っ込めた。

 ある日、高齢者向け住宅の申込書を持っていった。独り暮らしの父が転んでから、私は入居を急いでいた。

 必要事項をすべて記入し、最後の〈本人の希望〉欄へ書いた。

〈安全のため、早期入居を希望します〉

 父は紙を読み、赤い線で消した。

「何するの」

「これはお前の希望だ」

「父さんのためでしょう」

「私のためかどうかも、私に書かせろ」

 震える手でペンを握った。

 一行目を書くのに五分かかった。

〈娘に心配をかけないためではなく〉

 二行目。

〈自分で暮らす時間を長くするため〉

 三行目の途中で、文字が大きく崩れた。

「代わろうか」

 父は首を振った。

「お前が小さいころ、宿題の字が遅いと急かしたな」

「覚えてない」

「私は覚えてる。泣かせた」

 さらに十分かけて書き終えた。

〈必要な支援を受けたい〉

 私は、自分が父を助けているつもりで、父の言葉まで先回りしていたことに気づいた。

 空欄は、私が埋める場所ではなく、父が考えるための時間だった。

 住宅の見学では、父が自分で質問した。食事の時間、外出の自由、畑を借りられるか。私は口を挟まず、聞き取れなかった部分だけ後で確認した。

 入居の日、受付で署名を求められた。

 後ろには誰も並んでいなかった。

 父はゆっくり、自分の名前を書いた。最後の一画が紙の外へはみ出した。

「失敗した」

「読めるよ」

「お前の字よりはな」

 新しい部屋の机には、便箋と太いペンを置いた。

 一週間後、父から葉書が届いた。

〈畑は抽選に外れた。来月また申し込む。急がず待つ〉

 文字は震え、行は曲がっていた。

 けれどそれは、私が代わりに整えたどの文章より、父の暮らしが続いていることをはっきり伝えていた。