父の安全札

 旋盤工場の昼休み。父の一徹は、真鍮の安全札を指先で弾いた。

「一つくらい省いても、機械は怒らん」

 匠海は油の匂いの中で立ち尽くした。

 前の人生でも父はそう言った。設備を止めて札を掛けるには三分かかる。納期に追われた父は、その三分を惜しんで回転部へ手を入れた。午後三時四十分、工場のサイレンが鳴り、匠海の人生から父の声が消えた。

 四十歳まで機械保全を続け、事故報告書を暗記するほど読んだ匠海は、なぜか二十歳の今日へ戻っている。救うべき時刻は、まだ三時間先だった。

 工場へ入った瞬間から、未来で覚えた異音が聞こえていた。回転に半拍遅れて鳴る、乾いた擦過音。父の死後に再現実験で聞いた、裂けかけのベルトの声だった。

「一つくらい省いても、機械は怒らん」

「機械は怒らなくても、俺が怒る」

 匠海は父の手から札を取り、主電源のレバーへ掛けた。鍵を抜き、自分のポケットへ入れる。

「おい、勝手に止めるな」

「ベルトを見てから言って」

 カバーを開けると、内側の駆動ベルトに髪の毛ほどの裂け目が走っていた。父が顔を近づけた瞬間、裂け目は音を立てて半分まで広がる。匠海は未来の事故写真で見た位置へ白い検査粉を振り、亀裂の広がりを班長に示した。偶然では片づけられない証拠だった。稼働中なら、千切れたベルトが回転軸へ絡み、父の腕を引き込んでいた。

 班長が飛んできて、全ライン停止を命じた。納期担当は怒鳴ったが、千切れたベルトの写真を見て黙り込む。匠海は叱責も始末書も甘んじて受けるつもりだった。父が生きて帰るなら、評価など前の人生ごと捨てていい。

 午後三時四十分。

 耳を塞ぎたくなる時刻に鳴ったのは、事故サイレンではなく短い館内チャイムだった。

『設備交換が完了するまで、本日の操業を中止します。負傷者はありません』

 帰り支度をした父から写真が届く。作業着の袖は二本とも無事で、真鍮の札が今度は正しく主電源に掛かっていた。

《三分を惜しむな。息子に教わった》

 事故報告書には一度も載らなかった文が、匠海の新しい人生の最初の規則になった。