父の最後の恋人
小説家だった和邇部邦孝の遺品から、音声ファイルが見つかった。
再生すると、父の声が流れた。
『君だけには本当のことを言う。家も店も、すべて君に残したい。子どもたちには秘密だ』
長男が停止ボタンを押した。
「恋人がいた」
妹は首を振る。
「声の相手が聞こえない。独り言かも」
「“君だけ”と言ってる」
「録音機に話してるだけでは?」
「録音機へ不動産を残す父だった?」
「変人ではあった」
兄妹は弁護士へ連絡した。
「遺言書に第三者の名は?」
「ありません」
「口頭遺言の可能性は?」
「録音だけでは条件が厳しいです」
「相手が現れたら?」
「まず身元確認を」
妹が言う。
「父の読者、編集者、喫茶店の店員……」
兄はうなる。
「毎週花を買っていた」
「墓前用よ」
「生前から?」
「母さんの墓があるでしょう」
「正論で推理を殺すな」
録音の続きを聞く。
『君といる時だけ、私は別の男になれる』
兄が机を叩いた。
「確定だ」
妹も少し揺らぐ。
『妻には申し訳ない。だが、この気持ちは止められない』
「母さんが亡くなる前から?」
「最低」
『明日の夜、いつもの部屋で。鍵は私が持っている』
二人は父の仕事場、ホテルの領収書、古い鍵を調べた。鍵には〈三〇二〉。町の旅館にも同じ番号の部屋がある。
「父さん、月に二度そこへ」
「領収書に“執筆室利用”と」
「名目なんて変えられる」
「あなた、急に詳しいね」
「推理小説を読んだ」
旅館の三〇二号室を訪ねると、女将が言った。
「先生は毎月ここで、誰にも邪魔されず書いていましたよ」
「女性と?」
「登場人物とは大勢会っていたようです」
兄妹は再び音声を再生した。長い無音の後、父の声が続く。
『——ここで主人公は黙る。以上、第十二章、男が愛人へ告白する場面』
さらに父の咳払い。
『今の台詞、少しくさいな。全部直そう』
兄妹は顔を見合わせた。
兄は録音機へ頭を下げた。
「疑って悪かった」
妹は再生一覧を見た。
「次のファイル、題名が〈隠し子〉だけど」
兄は、今度こそ最後まで聞くことにした。
父の最後の恋人は、未完成の小説にしかいなかった。