父の財布に残った夜

午前二時十一分、朝比奈矩人は嶺岸澄音からの着信を受けた。

「起きてた?」

「今、起きた」

「父が亡くなった」

矩人はベッドの上で言葉を失った。澄音の父は、二人が別れるきっかけになった人だった。

一年前、矩人は夜行列車で澄音の町へ行った。東京で一緒に暮らしたいと伝えるつもりだった。だが病院の面会口で父親に止められた。

〈澄音は君に会いたくない。これ以上、娘の人生を乱さないでくれ〉

矩人は切符だけを握って帰った。翌朝、澄音から〈来る気もないなら、もういい〉と届き、そのまま終わった。

「財布の中に、変な切符があったの」

澄音が写真を送る。白い廊下の蛍光灯の下、父親の財布から出てきたのは、あの夜の入場証と同じ日付の乗車券だった。裏に矩人の名前が書かれている。

「それ、俺の切符だ」

「どうして父が持ってるの」

「面会口で渡した。君に、来たことだけ伝えてくれって」

沈黙のあと、遠くでストレッチャーの車輪が鳴った。

「父は、あなたは来なかったって言った」

「君は会いたくないって」

「私、あの夜、病室を抜けて駅で待ってた」

二時十五分。たった四分で、一年分の空白に誰が立っていたのかが分かった。

「今から行く」

「来ないで」

「またそれを信じろって?」

「今度は本当に。朝一番で遺体と実家へ戻る。手続きが終わったら、そのまま海外赴任に出る」

矩人は初めて聞いた。澄音は、父の介護を終えたら応募すると決めていたのだという。

「二年、待てる?」と澄音が訊いた。

すぐに答えればよかった。だが矩人の机には、明日提出する婚姻届があった。恋ではなく、家業を継ぐ条件として決めた縁談だった。澄音が自分を捨てたと思い、受け入れた。

その沈黙だけで、彼女には答えが届いた。

「そっか。聞いてごめん」

通話は二時二十一分に切れた。矩人は引き出しから、帰路に使わなかった片道券を出した。二枚の切符が一度も同じ列車に乗らなかったことを思いながら、婚姻届の封筒へそれを挟み、糊付けした。