片方だけ歩く革靴

退職した夫は、玄関からほとんど外へ出なくなった。

右膝を手術して以来、転ぶのが怖いらしい。

妻が散歩へ誘っても、「明日から」と答える。明日は毎日来るのに、夫は一度も出発しなかった。

夫が四十年履いた革靴は、片方だけ踵が減っていた。

捨てようと箱へ入れた翌朝、右の靴が玄関マットの上に出ていた。

左は箱の中にある。

次の朝、右の靴は玄関の外にいた。

その次は、階段を一段下りていた。

右の革靴は、夜になると一歩ずつ歩いた。

「お前より先に散歩へ行く気だ」

妻が笑うと、夫は靴を拾って箱へ戻した。

それでも翌朝には、また一歩進んでいる。

七日目、靴は門の外まで行った。

夫は杖をつき、取りに行った。

八日目は角の電柱。

九日目は、かつて夫婦で毎朝寄ったパン屋の前。

店主が靴を見つけ、「ご主人、片方忘れてますよ」と電話してきた。

夫は恥ずかしそうに迎えに行った。

パン屋までは百二十歩。

途中で二度休み、妻へ「靴一足のために馬鹿らしい」と文句を言った。

帰りには焼きたてのパンを二つ持っていた。

右の靴は歩き続けた。

公園のベンチ、川沿いの桜、孫の通う小学校。

夫は毎朝、靴を連れ戻すために歩いた。

ある日は、靴より先に目的地へ行き、待ち伏せした。

「今日は俺の勝ちだ」

妻へ写真を送ってきた。

左の靴はずっと玄関に残ったままだった。

妻は理由を知っている気がした。

夫の右膝が悪くなるまで、二人は並んで歩いていた。右の靴だけが外へ出るのは、もう一度左を迎えに行くためなのだろう。

春、夫は左右の革靴を履いた。

古くて重いので、散歩には向かない。

それでも桜並木を、妻とゆっくり歩いた。

右の靴は勝手に先へ行かず、夫の足に従った。

帰宅後、夫は革靴をきれいに磨いた。

「もう夜歩きはさせない」

そう言って棚へ並べた。

翌朝、右の靴は動いていなかった。

代わりに夫の新しい運動靴が玄関の外へ一歩出ていた。

妻は声を上げて笑った。

夫は運動靴を履きながら、

「こいつは歩きたがりだな」

と言った。

その日から、夫は靴に追いつくふりをして、毎朝自分から門を出るようになった。