片道切符の裏
小さな駅の券売機には、一日に一枚だけ、行き先のない片道切符が出た。
裏へ誰かの名前を書き、改札を通ると、その人の記憶から自分が消える。
若い女性は、母の名を書いた。
進学も就職も結婚も、母は先回りして決めた。
断れば泣き、従えば、
「あなたのため」
と言う。
忘れてもらえれば、やっと自分の人生を始められると思った。
改札を抜けた瞬間、母から電話が来た。
「どちらさまですか」
胸が痛んだ。
それでも女性は遠い町へ行き、働き、家庭を持った。
母からの連絡は二度となかった。
十五年後、父の葬儀で故郷へ戻った。
母は受付で女性を見ても、丁寧に頭を下げるだけだった。
親戚は、母に娘はいなかったと話す。
家族写真には、女性のいた場所だけ光が滲んでいる。
葬儀後、母が台所へ立った。
客である女性へ茶を出し、ついでに小皿を一つ置いた。
昔から好物だった、酸っぱい漬物。
「お好きか分かりませんが」
母は言った。
女性は箸を取れなかった。
記憶は消えても、手は一人分の好みを残していた。
数日間、女性は実家へ通った。
母は親切な他人として迎えた。
庭の鉢を一緒に移し、父の服を分け、古い押し入れを片づけた。
奥から、行き先のない片道切符が出てきた。
裏には女性の名前。
母も昔、娘から自分を忘れさせようとしたのかもしれない。
けれど改札を通らず、しまったままにしたらしい。
「この名前、誰でしょう」
母が尋ねる。
女性は答えに迷った。
娘だと名乗れば、信じてもらえない。
奇跡の切符を責めれば、母の中にない罪を負わせる。
「昔、この家にいた人です」
「大切な人?」
「たぶん。とても面倒な人でした」
母は笑った。
その笑い方が、自分と同じだった。
女性は帰る前、連絡先を書いた。
「近所ではないけれど、手伝えることがあれば」
母は紙を冷蔵庫へ貼った。
翌月、母から電話が来た。
「漬物を作りすぎました。食べますか」
女性は、
「好きです」
と答えた。
記憶は戻らない。
母と娘にも戻れない。
それでも、忘れられたあとから始められる関係はあった。
片道切符は燃やした。
帰る道を作るのは、同じ記憶ではなく、これから何度も交わす用件のない電話だった。