牡蠣味噌の蓋

赤瀬峻は、来店してすぐ航空券の画面を店主へ見せた。

「金曜の便です」

「ずいぶん急だな」

「会社って、そういうものでしょう」

 バンコク支社へ二年間。現地の立て直しを任される。帰国後の昇進まで匂わせられ、峻はその場で承諾した。家へ帰って妻に話すと、妊娠八か月の腹を撫でながら「行ったほうがいいよ」と言った。

 その言葉に甘えたまま、出発まで四日になった。妻は一人でも平気だと言う。義母も近くにいる。けれど昨日、組み立て途中のベビーベッドの前で、妻が説明書を持ったまま眠っているのを見た。

 峻にとって今夜が最後の来店だった。店にはほかの客がいない。土鍋の牡蠣味噌焼きを頼むと、店主は蓋をしたまま火にかけた。

 鍋の中で味噌がぷつぷつと弾け、蓋の隙間から白い湯気が漏れた。焦げた味噌の甘い香りに、牡蠣の潮っぽい匂いが重なる。蓋を取ると、ふくらんだ牡蠣が濃い茶色の汁の中で震えていた。

 峻は一つ口へ入れ、熱さに息を吸った。塩気と苦みが、柔らかな身からあふれた。

「火、弱めましょうか」

 店主が聞いた。

「いや、もう少し、このままで」

 峻は航空券の画面を閉じ、会社の予定表を開いた。明日の一番に、人事部長との面談を入れる。辞令を断るのではない。出発を半年延ばせないか、初めて正式に頼む。評価が下がる可能性も、代わりの人間が選ばれる可能性もある。

 妻が本当は何を望んでいるかも、帰ったら聞く。「行ったほうがいい」の一言だけで、二年間を決めない。

面談で「家庭を優先したい」と言えば、覚悟が足りないと判断されるかもしれない。峻はそれが怖くて、妻の言葉を同意書のように扱っていた。だが赴任先で毎晩、出産の動画を受け取る自分を想像すると、昇進の輪郭だけが妙に薄くなった。延期が無理なら、そのとき改めて行くか断るかを二人で決める。最初から会社の時計だけで家族の時間を測るのはやめる。

 鍋の火はやがて消えた。それでも蓋の内側には湯気が残り、最後の牡蠣は味噌の熱を抱えたまま、舌の上でゆっくり縮んだ。