犬の鼻で見つける朝
夜明け前、母が家から消えた。
認知症が進み、最近は亡くなった夫を探して玄関へ立つことがあった。
息子は鍵を二重にしたつもりだった。
警察へ連絡し、近所を走った。
雨で足跡は消え、母の携帯は台所にある。
公園で、赤い首輪をした老犬が待っていた。
十年前、息子が道路脇で保護し、里親へ渡した犬だった。数年前に死んだと聞いている。
犬は息子の掌へ鼻を押しつけた。
次の瞬間、町が匂いの線で見えた。
赤い首輪を身につけている間だけ、犬の鼻を借りられるらしい。
濡れた土。
新聞。
夜勤帰りの人。
その中に、母の石鹸と古い箪笥の匂いが細く続いている。
犬と線を追った。
母は駅ではなく、取り壊された実家の跡へ向かっていた。
途中の商店街で線が何度も途切れる。
息子は焦り、
「早く」
と犬を急かした。
老犬は立ち止まり、パン屋の前で鼻を上げた。
店主に尋ねると、母はここで朝のパンを買い、
「夫が待っている」
と笑っていたという。
店主は心配して追おうとしたが、母が嫌がった。
匂いの線は川沿いの古いバス停へ続いた。
母はベンチに座り、パンを半分残していた。
「お父さん、遅いね」
息子を夫だと思っている。
息子は、
「父さんは死んだ」
と訂正しかけた。
老犬が膝へ鼻を当てる。
借りた鼻には、母から恐怖の匂いがしていた。
夫を待っているのではない。
自分がどこへ帰る人か分からず、知っている名前へしがみついていた。
「帰ろう」
息子は言った。
「どこへ?」
「朝ご飯の続きがある家へ」
母は少し考え、半分のパンを息子へ渡した。
二人で食べると、帰る気になった。
家へ着く頃、空が明るくなった。
赤い首輪が息子の手から落ち、老犬の姿も薄れる。
「ありがとう」
息子が言うと、犬は一度だけ尾を振った。
助けた昔を覚えているのか、ただ散歩を終えたのか分からない。
それから玄関の鍵だけへ頼らず、近所の店へ母の写真と連絡先を渡した。
母にも、迷ったとき入れる喫茶店を一緒に決めた。
犬の鼻はもう借りられない。
代わりに町の人たちが、母の歩く線を少しずつ見守ってくれる。
一人で見つける力より、帰り道の途中に知っている顔を増やす方が、次の朝には役立った。