王を斬るには愛が要る

王は弟の喉に短剣を当てていた。

セレトは玉座の間の中央で足を止めた。衛兵はすでに倒れている。残る敵は王一人。けれど、王の背後まで伸びる赤い結界は、普通の刃を通さない。

彼女の剣なら通る。

《愛断ち》は、心臓を一つ貫くたび、使い手から最も愛する者の記憶を奪う。顔も声も、共に過ごした年月も。愛が深いほど刃は鋭くなる。

幼い弟を守るため、セレトは剣術を覚え、盗みを覚え、王宮へ潜るため笑い方まで覚えた。どの技も弟へ帰る道だった。その道の終点で、剣は道そのものを代価に求めている。

「来い」

王は弟を盾にしたまま笑った。

弟の頬には、幼いころ木から落ちた傷がある。泣きながら姉の袖を握り、「置いていかないで」と繰り返した。その夜から、セレトはどこへ行くにも弟の手を引いた。

剣が鞘の中で鳴った。もう代価を選んでいる。

「姉さん、抜くな」

弟は分かっていた。助かっても、姉の中から自分が消える。

王が結界を強める。床に赤い亀裂が走り、倒れた衛兵の鎧が溶けた。時間はない。

セレトは剣を抜いた。

最初に消えたのは、弟を抱いて逃げた雨の夜だった。次に、熱を出した額へ布を置いた朝。最後に残ったのは、今こちらを見ている顔だった。

彼女は踏み込む。

王が弟を突き飛ばし、短剣を投げた。セレトは避けず、肩で受けた。赤い結界に剣先を押しつけると、忘れていく記憶の分だけ刃が白く燃えた。

「誰のためにそこまでする!」

王の叫びに、答えは出なかった。

もう、誰のためだったか分からない。

それでも身体は一歩を知っていた。剣は結界を割り、王の胸を貫いた。

赤い光が消える。弟が駆け寄り、倒れかけたセレトを抱き止めた。

「姉さん。姉さん、終わったよ」

彼女は肩の傷を押さえながら、その若者を見上げた。知らない顔なのに、なぜか手の形だけが懐かしい。

「すまない」

セレトは剣を向けた。

「あなたは、誰だ」

弟の指が、幼いころと同じように彼女の袖をつかむ。

けれど今度、彼女はその手を振りほどいた。