白い廊下の下書き
面会終了まで、あと十分だった。
鷹志が産婦人科の白い廊下へ着いたとき、環奈は退院用の封筒を抱えて立っていた。電話で「来なくていい」と言われたのに、会社を抜けてきた。けれど彼女の顔を見ると、遅すぎたことだけは分かった。
「もう終わったから」
「何が」
「全部」
鷹志は紙袋の中の未開封のゼリー飲料を握った。環奈が緊張すると食べられなくなることを思い出し、駅で買ったものだった。そんな小さなことを覚えていながら、今日ここへ来る判断だけを間違えた。
環奈は付き添い用に渡していた合鍵を差し出した。小さな金属が、病院の明かりの下で冷たく光る。
鷹志は受け取れず、代わりに彼女のスマートフォンを拾った。封筒から滑り落ち、画面が点いたのだ。メッセージアプリには、鷹志宛ての下書きが開いたままだった。
〈来て。怖い。仕事より私を選んで〉
時刻は午後二時十二分。手術の三時間前。
「送ってないじゃないか」
「送れなかった」
「俺は、本当に来なくていいと思った」
「だから来なかった」
鷹志は昼の会議を思い出した。環奈から届いたのは、短い一文だけだった。
〈予定どおり。連絡しなくていい〉
強がりだと疑いながら、上司の視線に負けて机を離れなかった。机の引き出しには、環奈から借りた青いハンカチが入ったままだった。昇進が決まる会議だった。結果は、来月に持ち越しになった。
「送ってくれれば」
「送らなくても来る人か、知りたかった」
壁の時計が一分進む。看護師が遠くから会釈し、閉館の準備を始める。
「試したのか」
「違う。最後に、期待したの」
環奈はスマートフォンを受け取り、下書きを見つめた。指が震えている。鷹志は今からでも一緒に帰ろうと言いかけたが、彼女の足元には実家行きのバス券が落ちていた。片道だった。
「次は来る」
「次があると思うのは、あなたの癖だね」
残り二分。環奈は下書きを選択し、鷹志の前で削除した。送信されれば、彼は謝り続け、彼女も許す理由を探してしまう。そのどちらも、今夜には間に合わない。
彼女は合鍵を鷹志の掌へ置いた。
面会終了の放送が流れる。鷹志は閉じた指の中で鍵の形を確かめた。
環奈は片道のバス券を拾い、白い廊下の向こうへ歩いていった。