白衣の外の契約

大学病院のラウンジで、早月森伊織真は婚約者の天瀬宮雪乃禾へ白い封筒を渡した。

「晴綺と結婚する。彼女は理事長の親族で、次の病院経営にも関われる。町の薬局で働く君とは、将来の規模が違う」

柚子ヶ谷晴綺は、理事長家の紋章が入ったカードを見せた。

「雪乃禾さんも、地元で薬を渡す仕事なら立派ですよ。身の丈に合ってます」

雪乃禾は婚約解消書へ署名した。

「明日の契約式には来る?」

伊織真は笑った。

「製薬会社との共同研究だろ。僕は新センターの主任候補だ。もちろん出席する」

翌日、病院の講堂には海外製薬企業、大学理事、報道陣が集まった。難治性疾患の新薬候補をめぐる大型契約で、総額は一千億円を超える。

壇上へ呼ばれた発明者は雪乃禾だった。

彼女は町の薬局員ではなく、薬剤師として患者の服薬記録を集めながら研究を続けた創薬企業の創業者だった。株式の過半を持ち、特許も本人名義。薬局は祖母の店を残し、現場を離れないため週に三日働いていただけだった。

病院理事長は雪乃禾へ深く頭を下げる。

「天瀬宮代表の出資で、新センターを設立できます」

晴綺が割って入った。

「私は理事長の姪です。経営には私も――」

「姪ではあるが、役員でも相続予定者でもない」

理事長は冷たく答えた。晴綺は名刺や交際相手へ“次期理事長”と名乗り、病院名で会食費を請求していた。監査結果により、関連財団の職を解かれることになった。

伊織真は雪乃禾へ近づく。

「君が研究者だと知っていたら、こんな決断はしなかった」

「薬局で患者さんの名前を覚える私では、不足だったのでしょう?」

共同研究の人選も発表された。伊織真は患者データを晴綺へ私的に見せた疑いで審査対象から外れ、主任候補欄は空白になっていた。

雪乃禾が契約書へ署名する。特許料、株式価値、研究代表の肩書が画面に並ぶ。

最後の署名が映し出された瞬間、伊織真が求めた病院経営への近道は閉じ、地味な白衣だと思って捨てた女性だけが、新しい病院棟を建てる権利を得た。