祖母の介護、二百年目
枝折千絵は、祖母の髪を二百七年梳かしていた。
不死化は身体の損傷を修復したが、認知症までは巻き戻せなかった。祖母は百年前から家族の名前を失い、五十年前から食事の仕方を忘れ、今では朝が来るたび「ここは誰の家」と叫んだ。
介護AIなら完璧に世話をした。体温も栄養も排泄も、千絵より正確に管理できる。けれど祖母は機械の声を怖がり、千絵が手を握るまで壁を叩き続けた。
弟は火星へ移住した。母は「もう限界」と百三十年前に家を出た。千絵だけが残った。周囲は彼女を孝行者と呼んだ。その言葉は鎖に似ていた。
不老の顔には疲労が刻まれない。だから訪問医も親族も、千絵を見て「まだ大丈夫」と判断した。介護記録には祖母の睡眠や脈拍だけが並び、千絵が最後に朝まで眠った日を記す欄はなかった。
ある日、祖母が鏡を見て言った。
「千絵、まだいたの」
百年ぶりに正しく名前を呼ばれた。
「おばあちゃん、分かるの?」
「少しだけ。あなた、昔から出かけるのが下手ね」
祖母は櫛を奪い、震える手で千絵の髪を梳いた。
「私が忘れても、あなたまで人生を忘れなくていい」
三分後、祖母は千絵を母親と間違え、夕飯を催促した。
翌朝、千絵は初めて介護AIに一日を任せた。祖母の叫び声が端末から届いたが、通知を切った。海まで列車に乗り、靴を脱いで波に足を浸した。自由は嬉しいより先に、ひどく罪深かった。誰にも名前を呼ばれない数時間が怖く、それでも波音の中で、自分の呼吸だけを久しぶりに聞いた。
それでも翌週は二日、翌月は三日、家を空けた。人間の介助者を雇い、同じ境遇の家族と交代制を作った。祖母が泣く日はあった。千絵も泣いた。だが、誰か一人の人生を燃料にしない介護へ、少しずつ変えていった。
二百八年目の春、千絵は恋人と暮らす部屋を借りた。祖母の家には毎週水曜に通った。
「どちらさま?」
「千絵。今日は孫です」
「明日は?」
「明日は別の人。だから私は、また水曜に来られる」
祖母は分からないまま笑った。千絵は櫛を置き、夕暮れになる前に帰った。