私は「戻る」ボタンです
私は駅の券売機にある、左向きの矢印だ。
押されるたび、画面を一つ前へ戻す。
人間は私を嫌う。間違えた証拠だと思うらしい。連打する人、ため息をつく人、最初からやり直して怒る人。けれど私は、戻ることを失敗だとは思わない。
ある朝、灰色の髪の女性が来た。
目的地の駅名を何度も探し、違う路線を選び、そのたび私を押した。指は震えていた。
後ろの列が長くなり、誰かが時計を見た。
「やっぱり、今日はやめます」
女性が離れようとしたとき、作業着の青年が声をかけた。
「どこまで行きたいですか」
「山影駅。姉に会いに」
三十年前の喧嘩以来、一度も会っていない姉が入院したと聞いた。電話では言葉が出ず、顔を見て謝ろうと家を出たという。
青年は路線図を見た。
「乗り換えが二回あります。ここを押して戻りましょう」
女性は私を押した。
「また間違えました」
「戻るボタンがあるのは、選び直していいからですよ」
青年は切符を買って渡すのではなく、駅名を一緒に探した。女性自身の指で、路線、金額、枚数を選んだ。
途中、また違う駅を押した。
女性は恥ずかしそうに周囲を見た。青年は列の後ろへ向かって頭を下げたが、急かす言葉はなかった。むしろ一人の会社員が、隣の券売機へ人を案内した。
「ゆっくりで大丈夫です」
青年が言うと、女性は今度、自分から私を押した。
最後に切符が出ると、女性は両手で受け取った。
「これで、会いに行けます」
私は見送ることしかできなかった。
その日の夕方、女性は帰りの切符を買いに来なかった。病院へ泊まったのか、姉の家へ行ったのか、私には分からない。ただ、翌朝の始発前、駅員がホームで二人の白髪の女性を見たと話していた。
数週間後、女性が戻ってきた。
今度は同じくらい白髪の女性と一緒だった。二人は肩を寄せ、券売機の前で行き先を相談している。
「今度は海を見に行こう」
「乗り換え、分かる?」
「間違えたら戻ればいいでしょう」
二人は笑い、私を一度だけ押した。
三十年を戻すことはできない。
言わなかった言葉を、なかったことにもできない。
それでも人間は、ときどき一つ前へ戻り、そこから別の行き先を選び直す。
私は今日も左を向いている。
後ろへ逃げるためではない。
もう一度、前へ進む画面を選ぶために。