私は左の前輪です

私はベビーカーの左前輪だ。

小さな段差が苦手である。

持ち主は、赤ん坊の父親。抱っこ紐も哺乳瓶も扱えるようになったが、外出だけはまだ緊張する。母親が仕事へ戻り、今日が初めての二人きりの遠出だった。

駅の改札前には、ほんの二センチの段差があった。

右前輪は越えた。

私は引っかかった。

父親が押す。

私は動かない。

後ろには人が並び、赤ん坊は泣き始めた。父親の額から汗が落ちる。

「すみません」

誰に向けた言葉か分からなかった。

そのとき、横から手が伸びた。

若い女性が荷物の袋を受け取り、白髪の男性が私の下へ指を添えた。

「せーの」

私はたった二センチ、持ち上がった。

世界が大きく傾き、すぐ平らになった。

「ありがとうございます」

父親は何度も頭を下げた。

女性は言った。

「私も昔、ここで助けてもらいました」

白髪の男性は笑った。

「私は今日、初めてです」

二人はそれぞれ別の方向へ歩いていった。名前も聞かなかった。

父親はホームの端で赤ん坊を抱き上げた。

「怖かったな」

赤ん坊は泣きやみ、父親の襟を握った。

怖かったのは、たぶん父親のほうだ。

電車の中で、父親は何度も私を見下ろした。故障していないか確かめ、スマートフォンで「ベビーカー 段差 越え方」と検索した。

次の駅では、私の前を少し浮かせ、ゆっくり通った。成功すると、赤ん坊へ小声で報告した。

「父ちゃん、ひとつ覚えたぞ」

帰りの駅で、今度は杖をついた人が改札の段差を前に止まった。

父親はベビーカーのブレーキをかけた。

「荷物、持ちます」

杖の人は遠慮したが、父親は笑った。

「私も今日、持ってもらいました」

私はその場で待った。

父親が誰かの袋を持ち、別の人が杖の先を段差の向こうへ置く。赤ん坊は私たちの上から、じっと見ていた。

小さな子どもは、親切の意味をまだ知らない。

けれど誰かが立ち止まり、手を添える姿を、目の高さで覚えている。

私は左の前輪だ。

その後も、石畳、排水溝、店の入口で何度も止まった。父親は以前ほど慌てず、無理に押さず、必要なら周りへ声をかけた。

段差を一人では越えられない。

だから、人と人が同時に手を出す瞬間を、誰より近くで知っている。