私は海を見なかった
私は、青い空き缶だ。
放課後の公園で、制服の少年に握りつぶされ、植え込みへ投げられた。
少年はベンチでうつむいていた。陸上部の選手から外されたらしい。電話の向こうへ、「平気」と何度も言っていたが、声は平気ではなかった。
風が私を歩道へ転がした。
靴が一足、私を蹴った。
自転車のタイヤがよけた。
誰かが「ごみだ」と言ったが、立ち止まらなかった。
空が暗くなり、雨の匂いがした。側溝まで、あと少し。そこへ入れば川へ流れ、いつか海を見るのだろう。
赤い長靴の女の子が、私の前にしゃがんだ。
小さな手で拾い、持っていた袋へ入れようとした。
後ろの父親が言った。
「汚いから触らなくていいよ」
女の子は首をかしげた。
「でも、風に迷子にされるよ」
父親は困ったように笑い、ポケットからハンカチを出した。女の子はそれで手を包み、私を持ち上げた。大げさな正義感ではなく、道に落ちた帽子を拾うような自然な動作だった。
その声を、ベンチの少年も聞いていた。
彼は立ち上がり、女の子へ近づいた。
「それ、僕が捨てた」
父親の顔が険しくなった。けれど女の子は私を少年へ差し出した。
「じゃあ、見つかってよかったね」
責める言葉ではなかった。
少年は私を受け取り、しばらく見つめた。やがて歩道に落ちていた菓子袋と、折れたストローも拾った。
「ごみ箱まで持っていく」
女の子は自分の袋を広げた。
「一緒に入れる?」
二人は公園の端まで歩いた。少年は途中で、ベンチの下の紙くずも拾った。父親も黙って、植え込みからペットボトルを一本取り出した。
その様子を見ていた散歩中の老人が、足元のたばこの箱を拾った。誰も号令をかけていないのに、公園の中で、手が一つずつ地面へ伸びた。
私は分別箱へ入れられた。
少年はスマートフォンを取り出し、さっき「平気」と言った相手へ、もう一度電話した。
「やっぱり、悔しい。明日、先生と話す」
声は震えていたが、今度は本当の声だった。
私は海を見なかった。
代わりに、雨の前の空を見上げる少年の顔を、最後に見ることができた。
迷子にならずに済んだのは、たぶん私だけではない。