空にする最短手

 向坂弓弦は、合図と同時に杯を床へ叩きつけた。

 薄い硝子が砕け、琥珀色の液体が白い床を走る。

 向かいの元ボクサーは目を見開いたが、すぐに自分の杯を掴んだ。壁のルールは簡潔だった。

《合図後、自分の杯を先に空にした者が勝者となる》

「逃げたな!」

 元ボクサーは勝利を確信し、杯を喉へ傾ける。半分を飲んだところで、床下から電子音が鳴った。

『勝者、向坂弓弦』

「は?」

 男の手が止まる。だが口に入った液体は戻らない。顔から血の気が引き、厚い肩が震え始めた。

「空にしただろ」

 弓弦は割れた杯の破片を靴先で示した。

「飲み干せとは書いてない。床へ移しても、杯は空だ」

「そんな屁理屈で……」

『規則違反なし。敗者処理を開始』

 男の首輪が赤く点滅する。毒が入っていたのは、彼の杯だったらしい。主催者は片方だけが毒入りだと説明したが、それさえ勝敗には関係なかった。

 弓弦は合図前から床を見ていた。排水口がなく、液体をこぼすことを想定した吸水溝だけが卓の周囲を囲んでいる。こぼした者を即座に殺す設計なら、そんな溝は必要ない。つまり主催者は、この解法を知ったうえで黙っていた。

 さらに二人の杯は、薄く割れやすい硝子でできていた。毒を飲ませたいだけなら金属でいい。割れることまで含めて盤面なのに、元ボクサーは「杯は飲むもの」という常識から一歩も出なかった。

「お前、最初から……」

 倒れかけた男が問う。

「最初からじゃない。ルールを三回読んで、あなたが一回しか読まなかった時に決めた」

 弓弦は勝者の扉へ歩く。

 背後で男が倒れる音がした。

 吸水溝が琥珀色を呑み込み、床だけが何事もなかったように白へ戻る。

 壁の記録には、弓弦の杯が空になるまで〇・三秒と表示された。飲み込む速さを競えば人間には出せない数字。それでも機械は、規則どおり最短の空杯として受理している。

 頭上のスピーカーから、主催者の楽しげな拍手が響く。

「見世物にしては床が汚れすぎたな」

 弓弦は振り向かず言った。「次は『飲め』と書いておけ」