空豆の薄皮
引っ越して十日、隣の部屋の住人の顔をまだ知らなかった。
廊下で物音がすると息を潜め、宅配便は置き配にした。会社では普通に話せるのに、帰宅すると声の出し方を忘れる。実家から来た『新しい町はどう?』というメッセージにも、既読だけをつけた。夜になると、上の階で椅子を引く音や、隣の鍵が回る音だけが聞こえる。誰かが近くにいるのに、自分だけ透明になったようだった。
最寄り駅から少し外れた居酒屋に、初めて入った。カウンターの端には、毛糸の帽子をかぶった常連が一人いた。店主が僕へおしぼりを出すため、その人の前の醤油差しを少し動かした。常連は無言で醤油差しをさらに奥へ寄せ、僕の肘が置ける幅を作った。
注文したのは焼き空豆だった。網の上で黒い莢がぱちりと弾ける。焦げた青臭さと塩の匂いが立ち、皿へ移された莢の隙間から熱い蒸気が噴いた。
指で開くと、内側は白い綿のようだった。豆をつまむ。薄皮を剥くべきか迷っていると、店主が言った。
「薄皮、食べてもいいよ。気になるなら剥いてもいい」
決まりはないらしい。一粒目は剥いた。鮮やかな緑で、ほくりと甘かった。二粒目はそのまま食べた。皮に少し苦みがあり、その分だけ豆の味が長く残った。
奥の常連は帽子を取った。帰るのかと思ったが、僕の背後の壁にある荷物掛けへ自分の上着を移しただけだった。空いた隣席の背もたれが、こちらへわずかに開いた。誘われたわけでも、歓迎されたわけでもない。ただ、拒まれてはいないと思えた。
僕はスマートフォンを開き、実家へ『まだ慣れない。でも近所に店を一つ見つけた』と返した。それから、明日の朝、隣室のドアと同時になったら先に挨拶しようと決めた。会わなければ、週末に小さな菓子でも持っていく。迷惑がられる可能性は残る。それでも廊下で息を止めるのはやめる。
最後の豆は薄皮ごと噛んだ。苦みのあとから、春のような青い甘さが出てきた。指先には莢の熱が残り、冷えた部屋へ帰る鍵を、少しだけ軽く握れそうだった。