窓の外のバックコーラス

日暮叶芽が新居でMVを再生したとき、窓の外に女が立っていた。

十二階の部屋だ。ベランダも足場もない。それなのに、画面の中では白い服の女が窓ガラスへ両手をつき、室内を見ている。現実の窓には夜景しか映らない。

イントロのノイズに合わせ、女の唇が動いた。

「後ろにいる」

叶芽は振り返った。段ボールと、壁に立てかけたスピーカーだけ。MVはこの部屋の前の住人が歌った曲だと、不動産屋から聞いていた。彼女は公開直前に失踪し、主旋律だけ別の歌い手へ差し替えられたという。壁には吸音材を剥がした四角い跡があり、収納の奥から、名前を黒く塗られた古い譜面が一枚出てきた。叶芽はそれを机に置いたまま再生していた。

Aメロで、画面の女は窓を叩いた。音は聞こえない。代わりに、主旋律の語尾へ薄いハモりが絡む。叶芽はイヤホンを片耳ずつ外し、中央定位を消した。すると、背後に隠れていた声が近づいた。

「後ろにいる」

また振り返る。誰もいない。

サビが爆発し、差し替えられた歌声が高く伸びる。その下で、もう一人の声が別の旋律を歌っていた。叶芽が再生アプリのトラック表示を開くと、主旋律の下に鍵の掛かったレイヤーがある。名前は〈BACK〉。波形は、窓を叩く女の手と同じリズムだった。

鍵は部屋番号だった。

解除すると、MVの窓が内側から開いた。女は部屋へ入らず、画面の奥に並ぶ録音トラックを指さした。そこには失踪した歌い手の仮歌、息、笑い、言い直しが細切れで保存されている。会社は彼女の姿と名前を消したが、声だけをバックコーラスとして売り続けていた。

最後の一音で主旋律が消え、ハモりだけが一人分の歌になる。女は初めて窓から離れ、自分の声を指した。

「後ろにいる」

叶芽の背後にいるという怪談ではなかった。彼女はずっと、別人の歌の後ろに置かれ、聞こえない程度の音量で生かされていたのだ。

叶芽は公開クレジットの空欄へ、前の住人の名を入力した。現実の窓に朝焼けが差すと、画面の女はもう外ではなく、主旋律の中央に立っていた。