竹樋が月を運ぶ

公爵令嬢だったセレネは、婚約破棄の慰謝料として山の斜面を一枚もらった。

「せめて温泉付きだそうだ」

元婚約者は嘲笑した。源泉は小屋から三十歩も上にあり、湯は雑草の中へ垂れ流されていたからだ。

だがセレネは、ぬかるみに沈む豪華な靴を脱ぎ捨てた。

最初に直すのは小屋でも身分でもない。湯を運ぶ道だ。

斜面に自生する太い竹を一本切り、節を鉄棒で抜く。

王宮では、茶を一杯運ぶにも銀盆の角度を教えられた。けれど湯は礼法では流れない。セレネは小石を竹の中へ転がし、途中で止まるたび節を削り直した。源泉側を指一本高くし、桶側を少し下げる。裾が泥で汚れるほど、胸の奥は軽くなった。半分に割らず、筒のまま使うのは、冷たい山風から湯を守るためだった。侍女も職人もいない。鋸を引くたび手のひらが痛み、髪に竹の粉が積もる。

それでも石を台にして傾きを調べ、源泉から古い木桶まで竹を渡した。まず柄杓一杯の湯を流すと、途中でこぼれた場所が一つだけあった。苔を詰めて締め直し、今度は一滴も逃がさなかった。

最後に入口の栓を外す。

湯は一瞬ためらってから、竹の中をこぽこぽと走った。やがて木桶へ細い滝が落ち、白い湯気がふわりと立つ。夕空の月が湯面で揺れ、まるで竹樋が月明かりまで運んできたようだった。

セレネは旅装を脱ぎ、桶へ身を沈めた。温かさが肩を包む。竹の青い匂いと、湿った土の匂い。王都の香水より、ずっと呼吸がしやすい。

石炉では薄い麦粥を温めていた。湯上がりに干し林檎を入れると、甘酸っぱい香りが湯気に溶ける。

そこへ元婚約者の従者が、息を切らして現れた。

「殿下が婚約破棄を撤回すると。すぐお戻りを」

差し出された書状には、見慣れた青い封蝋が光っている。

セレネは受け取り、竹樋の下の乾いた棚へ置いた。封は切らない。

「撤回するかどうかを決めるのは、もう殿下ではありません」

彼女は麦粥の椀を両手で包んだ。月を映した湯は満ち続けている。

「それに今夜は、私が初めて自分で引いた湯を、最後まで見届けます」