笑顔の残量
化粧台の新製品は、鏡へ向かって笑えない理由を一つ言うと、一時間だけ自然な笑顔を貸してくれた。
代わりに、効果が切れたあと同じ時間だけ、本当に笑えなくなる。
就職活動中の青年は、面接のたびに使った。
「自信がない」
鏡の中の口角が上がり、その表情が顔へ移る。
面接官は好印象だと言い、次々に選考を通した。
採用後も使った。
歓迎会。
取引先との会食。
苦手な上司との面談。
笑顔でいれば、物事は丸く進んだ。
効果が切れた時間は、一人で過ごせばいいと思った。
ところが妹の結婚式の夜、鏡を三時間使った。
親族へ笑い、写真へ笑い、泣く妹へ笑った。
帰宅後、父が古い映像を見せた。
亡くなった母が、幼い兄妹と踊っている。
青年は可笑しいと思ったのに、顔が動かなかった。
父が横で笑い、妹が泣き笑いする中、一人だけ無表情だった。
「疲れた?」
妹に聞かれ、
「そう」
と答えた。
借りた笑顔の代金を、家族と笑える時間で払っていた。
それでも仕事を失うのが怖く、青年は使い続けた。
一日八時間、鏡の笑顔で働く。
夜は八時間、何を見ても笑えない。
友人の冗談も、甥の変な踊りも、ただ眺めた。
ある日、上司に大きな失敗を報告する必要があった。
青年は鏡へ向かった。
理由を言おうとして、鏡の中の自分が先に無表情になった。
「本当は、笑わずに謝りたい」
それでも鏡は笑顔を貸そうとした。
青年は布を掛けた。
上司の前で、顔をこわばらせたまま失敗を説明した。
声は震え、印象も悪かった。
上司は怒ったが、最後に言った。
「今までで一番、話が分かった」
処分は受けた。
昇進も見送られた。
それでも帰宅した夜、甥が紙で作った妙な冠をかぶせてきた。
青年はすぐには笑えなかった。
長く借りたぶんが、まだ残っていた。
翌朝、口元がほんの少し動いた。
甥は大げさに拍手した。
「笑った!」
青年は化粧台を捨てなかった。
鏡として使うため、機能だけを切った。
朝、無表情な自分が映る日もある。
そんな日は、笑おうとせず家を出る。
本当の笑顔は、感じよく見せるための道具ではない。
笑えない顔を見せてもそばにいてくれる人へ、遅れて届くことがある。