箱の中から家になる
わたしの名は瓦。
甲羅が古い屋根の色だから、麦乃がそう呼んだ。
麦乃と初めて会ったとき、彼女もわたしも箱の中にいた。わたしは透明な飼育箱。彼女は児童相談所の待合室で、膝に小さな荷物箱を抱えていた。
大人たちは「今度のおうち」「しばらくの間」「相性を見て」と話した。麦乃は黙って、わたしの鼻先へ指を置いた。
「瓦はいいね。どこへ行っても家を背負ってる」
人間は、甲羅を家だと思うらしい。
違う。甲羅は体だ。怖いときに隠れられても、朝の光や、水の音や、名前を呼ぶ声までは入っていない。
最初の家では、動物は困ると言われた。麦乃はわたしを手放さず、二人で元の場所へ戻った。
次の家では、大きな水槽を買ってくれた。けれど一年後、事情が変わったと大人が泣いた。また箱に荷物を詰めた。
麦乃は移るたび、わたしの水を少しだけ瓶に残した。新しい水槽へ古い水を混ぜると、急に全部が変わらずに済むのだと言った。
やがて麦乃は大人になった。小さな部屋を借り、わたしのために日光浴の台を作った。
「ここなら、誰にも返されないよ」
そう言いながら、彼女は長いあいだ泣いた。
何年もたち、ある雨の日、麦乃は一人の子どもを連れてきた。その子も膝に荷物箱を抱え、大人の言葉にうなずくだけだった。
麦乃は「今日から家族」とは言わなかった。
「まず、瓦の水換えを手伝ってくれる?」
子どもはわたしの前へ座った。
「このカメ、逃げない?」
「逃げても探すよ」
麦乃はすぐに答えた。
「何回でも?」
「何回でも」
子どもの肩から、見えない力が少し抜けた。
その夜、二人はわたしの水槽の前で夕飯を食べた。会話は少なかった。それでも朝になると、子どもが照明をつけた。昼には麦乃が水温を確かめ、夜には二人で餌の量を相談した。
人間の家は、壁や屋根でできているのではないらしい。
逃げても探すこと。
いなくならないように世話をすること。
昨日の水を少しだけ、今日へ混ぜること。
数か月後、子どもはわたしの甲羅へ触れず、そっと指を近づけた。
「瓦は家を背負ってるんじゃないんだね」
麦乃が笑った。
「うん。私たちが、瓦の帰る場所になるの」
わたしは二人の指のあいだへ首を伸ばした。
箱から始まった三人は、その朝、ようやく家になった。