紙の海に立つ
地方新聞の印刷工場では、午前一時の輪転機停止が朝刊の遅配に直結する。その夜、小田巻遼が呼ばれたとき、紙面の赤い見出しだけが右へずれ、作業台には不良紙が波のように積まれていた。
印刷長は版の見当を直すよう言った。色ごとの位置を合わせる調整で、確かにずれは消せる。しかし遼は一枚おきに不良が出ていることに気づいた。版の位置が悪いなら、全部同じようにずれる。
彼は機械を寸動させ、二つあるブランケット胴を交互に確認した。片方の表面だけ、紙粉とインクが細い筋になって固まっている。そこを通る紙はわずかに滑り、次の色へ届く時刻が遅れていた。
「速度を落として刷り切れないか」
印刷長が尋ねた。遼は不良紙の端を指でなぞった。固まりはすでに紙を押し、浅い傷を付けている。速度を落とせばずれは小さく見えるが、ニップ圧が一点に集中し、胴のゴムを傷める。翌日の印刷まで止まる可能性があった。
遼は停止時間を十五分延ばし、胴を冷ましてから固まりを溶剤で落とした。強く削れば表面がへこむので、光を斜めから当て、艶が均一になるまで布を替える。次に左右のニップ圧を測ると、清掃側だけ高かった。昼勤が紙詰まりを取った際、調整ねじを半回転動かしていた。
清掃中、配送担当が何度も残り時間を聞きに来た。遼は「あと五分」とは答えず、次に確認する項目を一つずつ伝えた。曖昧な安心を与えると、配送車が早く並び、現場が焦って試し刷りを省く。印刷長も途中から時計ではなく、遼が置き替える布の枚数を見るようになった。
圧を戻し、白紙を十枚通す。遼は一枚目ではなく、胴が温まった十枚目の端を重ねた。赤も黒も同じ位置に収まった。
午前三時二十分、輪転機は唸りを取り戻した。新聞が折られ、束になり、配送車へ吸い込まれていく。印刷長は「間に合う」とだけ言った。
遼が不良紙の原因票を貼り終えるころ、編集部から号外のデータが届いた。輪転機は止められないまま、次の紙の海がこちらへ流れ始めた。