紺色の袖を畳む
真緒が段ボール箱から引き出したのは、父の紺色の作業着だった。
肘が白く擦れ、胸の名札は糸の端だけ残っている。父は床に座ったまま、「それは取っておけ」と言った。
「誰が」
「お前が」
「どうして」
「丈夫だ。庭仕事にも使える」
父の家を片づけるのは今日の午後だけ、と真緒は決めていた。引っ越し先に入らないものを、残す箱、捨てる袋、寄付する箱へ分ける。それだけの作業だった。なのに父は、古い鍋も電気スタンドも、真緒の部屋へ運ばせようとした。
作業着を広げると、袖が長く床を擦った。中学生のころ、父は寒い朝にこれを肩へかけてきた。重く、油の匂いがし、断ると「せっかく貸してやるのに」と機嫌を損ねた。その重さだけが、今も布に残っている気がした。
「いらない」
真緒は言った。
「思い出だろ」
「お父さんの思い出でしょ」
「親のものを子が持つのは普通だ」
「普通かどうかで決めない」
父はガムテープを強く引いた。ばり、と部屋に音が響く。
「なら捨てろ」
「寄付する。使う人がいるかもしれないから」
「勝手にしろ」
その言葉を許可とは受け取らず、真緒は作業着のボタンを留めた。袖を内側へ折り、背中を二つに畳む。父は見ていないふりをして、工具の箱を閉じていた。
寄付の段ボールへ入れようとしたとき、胸ポケットから小さな紙が落ちた。古いクリーニング店の引換券だった。裏に子どもの字で「六時にむかえ」と書いてある。真緒の字だった。
父が手を伸ばす。真緒は先に拾い、券だけを差し出した。
「これはそっち」
「お前が持ってればいい」
「私は持たない」
父は券を受け取り、しばらく見たあと、作業着の胸ポケットへ戻した。そして自分で紺色の布を持ち上げ、寄付の箱へ入れた。
「その箱、重くなるぞ」
「持てる」
「そうか」
真緒は箱の蓋を閉じた。父は手を出さなかった。手伝わないことが、今だけは信頼に近かった。
ガムテープを一本まっすぐ貼る。紺色の袖はもう見えない。それでも失われたとは思わなかった。二人のどちらも着ないと決めたことで、ようやく服はただの服になった。