縫い目の鴉

ウルジャ・ケテンは、黒鴉の旗を夕陽へ透かした。

左右の翼を結ぶ縫い目だけが、馬の腱ではなく羊毛糸だった。小刀を一度入れれば翼が割れ、長い尾が二本に見える。敵のサルグ族が退却に使う、燕の形になる。

「旗を傷つければ、祖霊がおまえの子を噛むぞ」

旗頭の老兵が言った。

「子はいません」

「なら、おまえを噛む」

谷の向こうにはサルグ族の予備騎兵がいる。こちらの赤い鎧も、あちらの青い鞍も、夕陽の逆光では黒い影にしか見えない。見えるのは旗の輪郭だけだ。

千人長の策は一つだった。黒鴉を燕に変え、敵の右翼へ退けと誤読させる。右翼が谷を離れた瞬間、味方の本隊が中央を抜く。

問題は、敵にもこちらの旗印を知る捕虜がいることだった。鴉が急に燕へ変われば罠と疑う。そこでウルジャは、旗を守りながら少しずつ縫い目を切るよう命じられた。風で裂けたように見せるためだ。

一針ぶん切る。黒い翼がわずかに離れる。旗布の傷は、持つ者の胸の傷より遠くから見える。ウルジャは刃先を袖で隠した。

敵陣の旗が動かない。

もう一針。老兵が唾を吐いた。

「臆病者の旗にするくらいなら、燃やせ」

「燃えた旗は、誰の命令にも見えません」

三針目で、敵の見張り騎が丘を下った。報告に走ったらしい。

ウルジャは自分の指を切り、血を糸へ擦った。白い羊毛が風に光れば、人の手で切ったと見抜かれる。赤黒く濡らせば古い裂け目に見える。

残る一針。

千人長はまだ合図を出さない。中央の味方は鞍上で息を殺し、敵右翼は動きかけて止まっている。向こうも待っていた。燕が完全な形になるまで、命令とは認めないつもりだ。

一本の矢が飛び、旗竿に刺さった。次は旗持ちを狙う。ウルジャは矢羽の震えを見ながら、糸へ刃を当てた。

老兵が低く問うた。

「本当に退いたら、追わぬのか」

「追えば鴉に戻せません」

「惜しいか」

「旗も敵も、使える形のまま残すのが上の戦です」

千人長の鞭が一度、地を打った。

ウルジャは最後の縫い目を断った。二つに割れた翼が風を孕み、夕陽の中で黒い燕へ変わる。

谷向こうの敵旗が、いっせいに右へ傾いた。

「中央、進め」

命令が草原を走った。