署名のない内見
鳥越志真が知らない番号からの電話を取ると、不動産会社の女性が言った。
「お申込みいただいたお部屋ですが、同居予定者さまの本人確認がまだでして」
志真は、窓辺に置いたマグカップを見た。昨夜、卓也から届いたメッセージには、〈週末、いいところに連れていく〉とだけあった。
「部屋を申し込んだんですか」
電話の向こうが一瞬黙った。
卓也は以前から同棲を提案していた。志真も、いつかは、と答えていた。だから彼は、志真の好きな広い台所がある部屋を見つけ、内見し、人気物件だから先に押さえたのだという。
まもなく写真が届いた。白い流し台。南向きの窓。二つ並んだ洗面台。もう一件は、〈驚かせたかった。絶対気に入るよ〉というメッセージだった。
画面の部屋は、本当に好みだった。ここを断れば、同じ条件はもう出ないかもしれない。二十九歳の自分が細かい手順にこだわり、二人の未来を逃すようにも思えた。
けれど、申込書には志真の名前が印字され、署名だけが空いているという。未来の形は整っていて、本人だけが最後に呼ばれた。
電話口の女性が尋ねた。
「本日中にご来店いただければ、契約へ進めます。どうなさいますか」
志真は二つの写真を閉じた。一枚は卓也が選んだ新しい部屋。もう一枚は、今朝撮った自分の狭い台所だった。水切り籠が傾き、壁紙に小さな染みがある。それでも、そこにあるものは全部、自分が選んだものだった。
「申込みを取り下げてください。私は内見も同意もしていません」
声は思ったより震えなかった。
そのあと卓也へ、最初から二人で探すなら話したい、と送った。取り下げに怒り、別れを選ぶなら、それも彼の選択だ。
お気に入り登録から物件を外すと、画面には似た部屋が一つも残らなかった。週末の予定も空白になった。志真は惜しいと思った。卓也と白い台所に立つ姿を、電話を切ったあとも何度か想像した。嫌だったのは部屋ではなく、自分が最後の部品としてはめられる順番だった。
良い部屋を失ったのかもしれない。志真はそう認めたうえで、署名のない申込書を、自分の未来から外した。